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旧約聖書
ユダの手紙より~抜粋~
『彼らは災いである。
彼らはカインの道を行き、利益のためにバラドの誘惑に迷い込み、コラのような反逆をして滅んでしまうのである。』
浪々とした世界に孤独な水音だけが、響く。
身を覆う大気は、すでに光を失っている。
あの日、
あの刻から、
私の時間は、止まったままです…
傷つき、天より堕ちた、孤高の天使…
私の、ユダ…
それは天使がまだ等しく暮らしていた頃のことである。天空城から遠く西方に位置する小さな泉の畔に一人の天使が住んでいた。その身が属しているのは、風。属性を体現するようにほっそりとしたしなやかな体型に知的な面立ちを備えていた。
「ふぅ…今日の音色はいつもと少し違いますね…」
陽光に照らされた水面に向かい一人ハープを爪弾く水色の長い髪の天使、その名をシンと言った。
いつも穏やかに微笑むその姿に惹かれて家を尋ねる者は後を立たなかったが、シン自身はこうして一人ハープに己の想いを託す事が好きだった。思えば、その穏やかな外見には似つかわしくないほどの情熱を内に秘めていたからなのかもしれない。溢れ出る想いを自らの指で音に変えていたのだろう。そんなシンが、最近、ハープを弾いていても落ち着かないという日々を過ごしていた。いつもなら心がざわめくとき、ハープの調べが自身を癒してくれると言うのに…
「なのに…弾けば弾くほど、心が波立つ…想いが行き場所を探しているような…」
シンは、何度目かの長い溜息をついた。
夜になり、軽い食事を取った後、再び泉に向かった。お気に入りの樹の根元に座り、ハープの弦に指を当てる。今夜はどんな曲を弾こうかと思案し始めるより早く、手にした弦は甲高い音と共に切れてしまった。
「……あ」
ふいのことにシンはしばらく、手元を見つめていた。細い指先には血が滲んでいた。
「…切れて、しまったのですね…」
いつもならすぐに張り替えられる弦が今夜に限ってうまくいかない。何度も直そうとしては失敗の繰り返し。それが何故か、シンにはとても哀しく思え、とうとう、直す事を諦めてしまった。
「…わたしには、ささやかな楽しみをも許されないのでしょうか…」
天使として生まれ、秀でた容姿を持ちながら、シンは何処までも控えめだった。その他大勢の天使の中にあって自分は、取るに足りない存在なのだと思っていた。能力のある天使達の足手纏いにならぬよう、自分の力で出来る最小限の事をして生きていこうと決めていたのだ。
「どうしたらいいのでしょう…」
拭い去れない不安と息苦しさを残したまま、シンはそっと夜空を見上げた。しかし、そこにある筈の光は無い。音の出ないハープを抱え、今夜をどうしようかと考えあぐねていると刹那、人の気配を感じ、シンは身じろぐ。こんな場所にこんな時間、いったい誰が…知らずシンの口調は固くなった。
「誰ですか?」
「君こそ、誰なんだ」
シンは背後からの凛とした声に身を固くした。その時、雲が切れ、傍らに佇む姿が月光に照らされる。細身の長身、切れ長の翡翠の瞳、陰影のある面立ちが近寄りがたいほどの高貴さを漂わせていた。それと同時にシンは、その視線に晒される事に幸福を感じている自分に気づいた。
この人は誰なんだろう、何故そんな瞳で自分を見るのだろう…シンの鼓動が早鐘を打ち始める。
「シンと、言います」
自分のハープを楽しみにしていたと聴き、礼儀を持ってシンは名乗った。
それが後に六聖獣の長となる、麒麟のユダとの出逢いだった。
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.02
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知り合って後、ユダは足繁くシンの元に通ってきた。時に女神から賜った季節の果物を、地上への視察の折に手に入れた装身具などを携えて。
「シン、いるか?」
そして、何度目かのドアベルが鳴る。急いで扉を開けた向こうには、果たして、ユダが立っていた。すると、いきなり目の前に差し出された、紅い果皮を持つ一握りほどの大きさの果実。
「これは?」
「ああ、昨日、神殿に寄った折にゼウスから賜った果実だ。お前と一緒に食べようと思ってな」
シンはナイフを用意し、ユダに渡す。細く長い指、それでいて力強さを感じさせるユダの指…器用に果実の果皮を剥ぎ取る様にしばし見入ってしまう。中から現れたのは、薄い橙色の果肉。さらに一口大に切り揃えると素手で掴み取り、自らの口へ放り込む。
「…ん、なかなか美味だ」
何気ない仕草だというのに、ユダが果肉を咀嚼する口元から眼が離せなくなってしまった。ゆっくりと上下する頤、果汁に濡れた唇、そして、唇の隙間から覗く、赤い、舌先…
「お前もどうだ?」
ふいに冷たく甘い感触がシンの唇に触れた。
「さぁ、口を開けろ」
ユダは果肉を一撮み、シンの唇へ運んでいた。
「………………」
言葉を発せられないまま、言うがままに唇を開く。滑り込んでくる濡れた果肉…口中から去っていくユダの指先、それが…ついと、シンの下唇をなぞっていく。
「……どうだ?」
そう言ったユダの視線が悪戯っぽく見えたのは気のせいか。シンは頬を染めたまま、頷いた。
「…とても……甘い…」
そうか、とユダは満足気にソファに身を沈める。早鐘を打ち始めた鼓動をシンは持て余していた。自身の感情に戸惑ってさえいたのだ。
(…ユダ…わたしは……)
「なぁ、聞いたか?またユダが手柄を挙げたそうだぜ」
「へぇ。凄いよな、ユダってさ」
買い物に出た先で聞く『ユダ』という名の天使。人々は口々にユダを褒め称えた。ゼウスの寵愛も深く、大神の右側に侍するのに値するほどの能力を持つという。
(どんな方なのだろう…機会があれば、ぜひ、わたしも逢ってみたいものですね)
「ああ、シン、今日は何をご所望だい?」
よろず屋の店主が微笑みながら話しかけてくる。
「ええ、ハープの弦を」
「また、切らしたのかい?そんなにハープばかり弾いてちゃ指、痛めちわないか?」
「ご心配、ありかどうございます。でも、むしろハープを弾いている時の自分が本当の自分のような気がしているのですよ」
あんまり根気を詰めちゃだめだと、愛想の良い店主はいつものようにハープの弦を一束、包んだ。
「時にあんた、ユダって天使に逢った事はあるかい?」
「ユダ…?」
繰り返し耳に届く名前…
「ああ、あんたぐらいの天使ならユダに逢う機会もあるかと思ってな」
「…残念ながら」
「逢ったことがないのか?」
店主は数日前の出来事を話し始めた。地上に落ちた天使が、邪悪な魂に取り込まれ、アグリと化した。その鎮圧の為、ユダを長として討伐隊が組まれ、その天使を滅ぼしたというのだ。しかし、完全に滅する事はしなかった。元は天使であった者をたとえ悪鬼と化したからといって簡単に滅ぼす事は出来ないとユダはその魂を封印し、浄化の地に送ったというのだ。その突然の判断に同行した天使達は驚愕したが、自分と同じ天使をこの手に掛けることは出来ないと、悠然と微笑んだ様があまりに神々しく、皆、静かに同意したと。
「…そう、ですか…そんな事が…」
こうしてシンの心に『ユダ』という名前が刻まれていった。まだ出会う前から、シンはユダに惹かれていったのだ。
ユダという天使に…
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.03
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今夜は仕事が早く終わったのでな」
私邸に帰る途中に寄ったと話すユダ。しかし、ユダの私邸はシンの私邸からは遠く離れている。ついでの距離などではない。ユダは自分の元へ来る為だけにここに足を向けているのだ。気づきながらその嘘に身を任せている。何故ならそれはシンにとって幸福であり、誇りだったからだ。
他愛の無い会話が二人の間に積もる。次第に二人で過ごす時間が多くなっていく。喜びを感じ、誇りだと思う反面、その事実がシンの心に暗い影を残しつつあった。
ユダは全天使の憧れの的であり、誰もがその傍に仕えたいと慕われている。そのユダが常に自分と共に行動している。なんの取り柄の無い、自分と。それが、シンの憂鬱を深めていった。
「シン?…お前はいつになったら俺の家でハープを弾いてくれるのだ?」
「それ、は…」
今夜もまた、夕食を共にし、ユダは窓際のソファに身を沈め、食後酒として真紅の果実酒を口に運んでいた。こうして何度、夜の静寂の時を共に過ごしたのだろう。シンは先刻の出来事を思い出していた。
差して、料理の上手でないシンの手伝いをするのが、ユダの常だ。必然的に狭い台所に肩を並べて立つことになる。その互いの呼吸が届くほどの距離いるとシンは体温の上昇を禁じ得ることが出来なくなっていった。感情の昂りを自身ではどうしようも処理できなくなっていたのだ。
覚束無いシンの手元をみやり、こうしたほうがいいと、手を重ねる。背後から抱きかかえられるようにして手元を覗き込まれ、身体が震えた、首筋にユダの呼吸を感じ、微かな欲望を…感じる…
(こうしてあなたと時間を重ねる事…それはわたしにとって…だけど、あなたは…ダメなのです…)
あの夜、泉で声を掛けてきたのが、あのユダだと知り、驚き、喜びに身を震わせたのは事実だ。折に触れ、天使達の口に上る名前『ユダ』。ゼウスの寵愛を受け、神殿への出入りも自由なのだと漏れ聴いた。その高貴さを羨む事もあったが、それ以上に「逢いたい」そう思うようになった。そのユダが今、こうして自分の目の前に存在しいる。叶うならこのまま、ずっと一緒に居たい、独占…したい…だが、それは許されない事なのだ。だからシンは、今夜こそ、想いを口にしようと細身のグラスを手に瞳を伏せたまま、ユダに進言した。
「ユダ…」
「ん?」
「あなたはこんな場所にいてはいけない人です」
突然の拒絶の言葉にユダは驚愕し、ソファの背から身を起こした。
「何故、そのような事を言うのだ」
真っ直ぐな瞳に見つめられてシンの決意は揺らいだ。この高貴な天使を独り占めしてはいけないのだ。全天使の憧れなのだから、この真紅の髪を持つ天使は…皆を率いていく存在なのだからと決意したはずなのに、優しく理由を問われただけで、言葉を続ける事が出来ない。
「…シン」
包み込むような声音で名前を呼ばれる。瞳を上げられないまま、ただ、肩を震わす。ユダが立ち上がる気配がする。靴音が近づく。これ以上、傍には居られない。
「…め…迷惑なのですっ」
しかし、声は情けないほど震えていた。
「…あ、あなたが突然訪ねて…来られのも…こうしてここに居ることも…っ」
「……………」
「わたしにとっては…迷惑…なのです…」
「………本心か」
これ以上何かを言葉にしたら両の瞳から、涙の粒が零れ落ちそうだった。こんな自己中心的な理由などユダには通じない。シンはわかっていた。だが、それ以上何を理由にしろと言うのだろうか。ユダを独り占めしてはいけないという罪を感じながらも嫌われる事だけはいやだと…そう、心が叫んでいるのに…
だから、シンはゆっくりと首を縦に振った。そして、ユダに背を向ける。
「…わかった」
テーブルに飲みかけのグラスが置かれる音がした。ユダはそのまま何も言わず、部屋を出て行った。足音が遠ざかる、風の音がユダの気配を消していく。
刹那、
シンは、部屋の扉を開け放った。月の無い漆黒の闇に向かって声にならない声で、叫んだ。
―行かないで、と………
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