強欲

〜 Inviolable 〜


「どうしました…?ユダ…」
「…っ!?…いや……」
最近のユダはおかしい、シンは不安に思った。
ゼウスからの責め苦から逃れて以来、時折呼び掛けに答えない時があった。
そういう時は決まって苦渋に満ちた瞳をしているのだ。
今、六聖獣の力で宮殿ごと封印しているとはいえ、
いつ、ゼウスがまた、無慈悲な行動に出るやもしれない。
初めはそんな不安からなのだろうとシンは思っていた。
そう、この時まで……
「……シン…っ」
図書室での調べ物を終え、互いの私邸に戻ろうとしていた時。
ふいに後ろから腕を強く引かれ、シンはユダの胸に抱きこまれた。
「……ユダ……?」
刹那、弾かれたようにユダはその身を引き、シンに謝罪した。
「す、すまない…少し、力が入りすぎたようだ……」
「いえ……私は…大丈夫です」
束の間触れたユダの身体は熱かった。
切ないほど、鼓動が高まっていたのを感じた。
それはまるで…禁断の感覚…
シンはユダから離れても暫くの間、その熱が感染したように己の身体もまた、
熱くなるのを感じていた。
(…俺はいったいどうしたというのだ…)
独りの部屋は硝子窓から差し込む月の光だけ。
意思とは関係なく乱れる呼吸を抑えようとユダは必死だった。
闇の中に身を置き、己の感情と闘う時間…
それは、ゼウスの所業のせいだと、わかっていた…

『…こうすれば…快楽が生まれるよう身体を作ったのは、私だっ』
下卑た笑い声のゼウスが甦る。
あんなにも崇拝していたゼウスが…グール以下に成り下がった様をユダは嘆いていた。
自分の進言でその様を正してくれたのなら、
この大罪を犯すなど考えもしなかったというのに…
心が血の涙を流していた。ユダはまだ、ゼウスの神たる部分を信じたかったのだ。
しかし、ゼウスは深層心理の中でももっとも脆い部分に触れた。
ゼウス自ら、禁忌としていた感覚を…
「……んっ………」
抑えきれない声が、濡れてその唇から漏れる…
時間が経つにつれ、その感覚は強まっていく。
欲望が…首を擡げる…
「……シン……シ…ン……お前…もか……?」
ユダの手が自らを慰めようと下肢に伸ばされる…
もどかしげに着衣の下に潜り込ませ、熱くなったモノを握り締める。
求めていた感覚がユダの全身を走る。
その抗えない欲望にユダは身を任せた。
「…あっ……んんっ……」
もっと強い刺激を求め、開いた下肢を外気に晒す。
夜の冷たさも今のユダには感じられない。
ただ一点の高みを目指して欲望のまま、身を揺すり続ける。
声を噛み殺した唇は音にならない叫びに彩られる。
「…シ………ンっ」
その絶頂に音になったのは、愛しい人の名…
そして、絶望の溜息がユダを襲うとき、月明かりに濡れた右手を晒す…
己の犯した罪のように… (…どうしたのでしょう。今朝の会合にユダが現れないなんて…やはり、昨日何か…)
様子が変だったユダをあのままにしてしまった事をシンは後悔していた。
他の皆に暇を告げ、シンはユダの私邸へ急いでいた。
「ゼウスから受けた傷がまだ、癒えていなかったのでしょうか…」
なんでも独りで抱え込んでしまうユダの性格を
一番わかっていたのは自分なのにどうしてあの時もっと、
問い詰めようとしなかったのか。
後悔ばかりがシンの脳裏を掠める。
「…でも、あの時……」
シンは本能的に怖れたのだ。ユダが抱えているモノが危険を孕んでいる事を感じて。
「とにかく、急ぎましょう。あの人に何かあったのなら、助けて差し上げなければ」
風がシンの長い髪を揺らした。早く、ユダの元へと、後押しするように…

ユダの私邸はカーテンが閉じられたまま人の気配すらしなかった。
慌てて手を掛けた扉には、鍵すら掛かっていない。
「…ユダ…?」
呼び掛けにも答えは無い。
もしかしたら、入れ違いにゴウの家へ向かったのかとシンは思ったが、
あのユダが鍵も掛けずに外出するとも思えなかった。
「ユダ、何処です?」
もう一度、ユダを呼び、寝室の扉を開けた。
果たして、そこにユダが居た…
「……ユダ…」
開け放した扉の向こうにユダは居た。
冷たい床に座り、その背をベッドの縁に預けたまま、瞳を閉じていた。
カーテンの隙間から漏れる光が、ユダの横顔をぼんやりと浮かばせている。
辺りにはらしくない…酒瓶が何本も転がっていた…
「…どうして…あなたが……そん…な……」
泥酔して眠り込んだユダの姿を目の当たりにしシンはその場に崩れ落ちた。
酒に逃げてしまうほどのモノをユダは抱えていたのだ。
そして、それほどの苦悩に気づけなかった自分を三度、責めた。
ともすれば声を上げて泣き出しそうになるのを必死に堪え、
ユダの傍らにしゃがみ込んだ。疲労の濃い顔にそっと指をのせる。
ここ数日でその頬からは肉がこそげ落ちたように見える。
以前のような肌の温もりは消えて無い。
乱れた着衣を正し、せめて横にしようとベッドから羽枕を取り、
ユダの頭部にあてがい、その肩に手を掛ける。
「……誰…だ?」
「…………あ」
光を失った瞳が虚ろに開かれる。
果たしてその瞳には、シンが映っていたのか、その時、シンは判断出来なかった。
ただ、哀しみに彩られたユダの瞳の色を正視出来ずに
声を出さずに泣くばかりだったから…
「…お疲れのようです…どうか…お休みになってください…せめて、ベッドの上で…」
何かがこの人を苦しめている。
私の敬愛する、大天使ユダが…そして、自分にはその助けが出来ないのだ。
ならばせめて安らぎを与えようと指先を伸ばした。
しかし、優しく触れたシンの指をユダは拒絶した。
「…お…俺に…触れるなっ」
「……ユダ……」
払いのけられた指先がチリチリと痛みを訴える。
再びユダの瞳に苦悶が浮かぶのをシンは見て取った。
自分の為す事はもう、ユダには疎まれてしまっているのか…
暗い絶望がシンを犯し始める。
「…そんな顔を…するな……シン」
驚愕に動けないシンに掛けられた言葉はいつもの優しい声音。
慈しむ様な視線。
「…ユダ…いったい…何があなたをそんなに苦しめているのですか。
私ではあなたの力にはなれないのですか?」
詰め寄るような言葉にユダは顔を背ける。
「…お前だから…だめなのだ…」
「私だから…?」
「そうだ…お前には…お前だけには…」
(…知られたくない……)
ユダはその先の言葉を飲み込んだ。
その絶対的な拒絶にシンは最後の扉を開ける決心をした。
「私が私でいる限りあなたの力になれないと言うのなら、
私は私以外の者になりましょう。
苦しんでいるあなたを黙って見ているくらいなら、己を捨てた方がましです。
どうかあなたの抱えているモノすべて、わたしにに与えてください。
そして、苦しみを共に…」
流れる涙が、頬を伝って細い顎に涙の雫を作る。
次から次へと涙の雫が生まれる。
自身を空にし、その中にユダのすべてを受け入れようとしているかのように…
「…シン………」
ユダの瞳に弱い光が戻る…ゆっくりと溜息を吐きながら、
ユダはシンの前に跪き、懺悔し始めた。
「…違うのだ…お前が悪いのではない……
すべてこの身が悪いのだ。禁忌を知ってしまったこの身体が…」
「……えっ」
何か言い掛けたシンを制し、ユダは言葉を続けた。
「……ゼウスから…受けた辱めは…想像を超えるものだった…
幾重にも裂かれた皮膚は永遠の再生をし、
流れ落ちた血は、床や壁そして、俺自身をも真っ赤に染めていった…ルカが助けに来なければ…
俺は…たぶん、狂っていただろう…それほどにゼウスの責め苦は俺にとって………」
その先を言い澱む、ユダ……
「他に……何が、あったのですか……」
たぶん、それだけではないのだろう、シンは直感した。高貴な魂を持つユダに狂ってしまうなどと言わせるほどのゼウスの責め苦。
それが何なのかをシンは知りたかった。
「…あぁ……そうだ…ゼウスは…俺を痛めつけるだけでは…飽き足らなかったようだ……シン、お前は、知っているか…?」
ふいにユダの視線が乱れる。そのまま視線を絡めたまま、ユダの手の平がシンの下腹部を滑る
「…………なっ……」
反射的に逃れようとしたシンの腰にユダの腕が回される。
強く引き寄せられ、顔を下肢に押し当てる。
熱い吐息を間近に感じ、シンは今まで知らなかった疼きを感じた。
「…ユ…ダ…何、を……」
くぐもった声が、自分の下方からするのをシンは黙って聞いていた。
きっとユダは限界ぎりぎりのところまで来ている。
今自分がこの手を振り解いてしまえば、永遠に以前のユダは戻って来ない気がしていた。
「…ゼウスが言った…ここを…こうすれば……快感が…生じると……」
閉ざされた空間の中に衣擦れの音が響く。
「…ユダ……や、やめて…ください……あ…ん……っ」
自身にも信じられないほどの甘い声が、喉を突いて出た。それは、シンを混乱させるには十分だった。
「何を…ユダ、あなたは……?」
「そう…ゼウスは俺に…教え込んだ……人間が愛情を交わす時の感情を、俺に…」
「……んっ……ああ……っ」
止まる事を知らないユダの指先は、シンの着衣の留め金を外し、
薄明かりの中にその白い肌を少しずつ晒していった。
「…俺は…その…妖しいまでの誘惑に…勝てなかった…
ゼウスが振るう鞭の痛みをこの身で受けながら…
欲しいのは、こんな感覚ではないと…懇願…した……っ
…痛みと快楽が混濁した時…俺は……俺は…堕ちたのだ…
…ゼウスの手に……っ」 「………ユダっ 」
微かに震える身体のまま、シンはその腕にしっかりとユダを抱き締めた。
ユダの嘆きが身の内に流れ込み、そうせずにはいられなかったから…
「……欲しいと……欲しいと思ってしまう…
どんな時でも…俺は……この、俺が……っ」
「もう…何も…言わないで下さい……ユダ……」
シンは、ユダの頤に指を掛け、上向かせる。
救いを求めるその唇にそっと口付けを与える。
驚きに瞳を見開くユダにシンは、告白する。
「これが、あなたと同じ感情なのかはわかりません。
だけど…わたしはどんな時でもあなたに触れたかった…
いつでもあなたを近くに感じていたかった…」
言葉を失うユダにもう一度、口付ける。
「あなたが…知ってしまった禁忌を…わたしにも…教えてください……」
「………シン…」
刹那、
箍が外れたようにシンの唇を貪るユダ。
骨も折れよと強く抱き締める腕になぜか、シンは幸福を感じていた。
「……シン………シンっ……俺の……シン…」
「……ここに居ます…いつも、わたしは…あなたの傍…に…」
堰を切ったように己が欲を求めるユダ。
目の前の白い身体を荒々しく開き、組み臥す。
まだ欲情の兆しも無いシン自身を握り締める。
「………………っ」
「…逃げ…ないでくれ……」
知らずに身を強張らせたシンにユダが懇願する。
羞恥に紅く染まる首筋に舌を這わせる。
痺れるような旋律がシンの背を這う。
それと同時に繰り返し撫で上げられたシンの欲望は次第に熱を帯び、
その吐息を甘く、濡らしていった…
「…あっ……い……やっ………」
己の身体に起こった変化に戸惑うシン。
しかし、その誘惑はあまりに甘美で逆らう事など出来はしなかった。
白い肌を滑るユダの唇が、そこここに紅い刻印を残す。
刻まれる度、シンの下肢が揺れる。
ユダの熱情が、シンと次第に同化していく…

(…もっと狂えと声が聞こえる…これは、あなたの…声…)
追い立てられる欲情にシンは、細い喘ぎを発し続けた。
胸の突起を口に含まれ、軽く噛まれただけで、熱が上昇する。
手の平が、肌を滑るたび、切ないくらいの吐息が漏れる…
そして、熱情の塊を口に含まれたとき、シンは快楽の声を上げた。
「…………あっ……あぁぁっ、ユダっ」
ユダの真紅の髪に指を差し込み、抱き締める…
ユダの唇に翻弄されていく、シンだった…

ここが、何処なのか、
いったい、どのくらいの時が過ぎたのか。
朝の光が差し込む迷宮でただ、擁きあう二人。
互いを救う為、
それが、情を交わす理由だったのか…
今は、知りたくない…
ただ、今は、感じたい…
…その熱い…温もりを……

「…んっ……ああっっ」
「…シン……シンっ」
上ずった言葉でシンを求めるユダ。
「……いいか……シン……」
ユダが意図すべきことを理解したシンは黙って頷いた。
そして、ふいにユダの瞳に哀しみが宿る。
「…今だけは…シン、その瞳を閉じていてくれ…頼む…」
自欲に溺れてしまった己をシンの記憶に留めたくない。
ユダは無意識にシンの瞳を手の平で覆った。
「…ユダ……ユダ……どうか…泣かないで……」
返事代わりの口付けは、甘く優しかった…
そして、意思に身体を引き裂かれたように、
ユダは、シンを貫いた………

囁き、

誘う、

声。

甘く、濡れて、

迷い込む

絡む漆黒の蔦に身を戒められ、

願うのは、平安か。

穢れた血が、呼ぶのは

――――――誰?

引き返せない、孤高の天使は自嘲する

その腕に抱いた温もりを 

失いたくない。

たとえそれが、欺瞞の果てだったとしても。

引き裂かれた傷から、

流れ出す真紅の血が、

二人の思考を 紅く、染め抜く…



「…愛している…」



END