■自分勝手な薬指■
「だぁ〜か〜らっ!!なんで、マヨネーズなんだよっ!」
まだ、残暑厳しいこの節…拳を振り上げ、力説しているのは、緑陽高校3年藤井渉。
そして、呆れたような溜息をついて、渉の抗議を聞いているのは、国立大1年の架月裕壱。
二人は、付き合って1年半目の恋人同士…の、筈……
「ったく…架月がこんな味覚だったなんて、初めて知ったよ……」
「……………………」
何も言い返さない事にますます腹を立てて、今にもテーブルを叩き出しそうな渉を尻目に昼食を食べ続けている、裕壱。
そう、問題は本日の昼食『冷やし中華』なのだ。 そこそこ料理が出来るようになった渉が、中元で貰ったおいしい冷やし中華があるからとやってきたのである。
裕壱の為に何かをしてあげる事が嬉しくて仕方ない渉が、なんとか出来上がった冷やし中華を食卓に運ぶ。そこで聞いた架月の第一声。
『渉、マヨネーズ取ってくれ』
瞬間、何を言われたのかわからなかった渉だか、ソレを中華にかけようという裕壱の意図を知って、激怒したのである。
「なんで、そんなもん、かけるんだよ!せっかくの麺の味が台無しじゃんか!!どっかのアイドル歌手じゃないけど『マヨネーズ大好き』なんて、キャラなんじゃないだろーなっ!!」
それはもう……機関銃のように喋り捲る渉の言いたいことを要約すると、こうだ。
古来冷やし中華は、この酸味の効いたタレとゴマの風味で楽しむものだ、新参者のマヨネーズをかけて食べるなど、邪道だっ!と、言うのが、渉の言い分なのだが…
そこで裕壱が、はいそうですか、と折れる筈もなく、悲鳴を挙げる渉の目の前で、たっぷりとマヨネーズをかけた、のである。
「もう……信じられないよ…」
渉は、割り箸を咥えたまま、ガックリ首を落とした。せっかく、頑張って作ったのに…食べ終わってもぶちぶち不満を漏らす渉に相変わらず裕壱は無言のまま。だんだん不安になってきた渉が、恐る恐る、恋人の名前を呼んでみる。
「…か、架月…?」
「………………」
返答、無し。 怒ったのか?マジ、怒っているのか?少し、言い過ぎた?冷静に考えてみれば、たかが、嗜好の違いじゃないか……などど渉が自己反省を始めた、次の瞬間。
「…お前…今時、マヨネーズ入りの冷やし中華なんてコンビニでも売ってるぜ…?」
裕壱は、マジで怒っていた。
陽が落ち、風も涼しく吹き始めた歩道を渉は、自宅に向かって歩いていた。
(…ちぇっ…架月の頑固もん!!あれから口、きいてくれないんだもんな…たかが、冷やし中華なのに……)
喧嘩を仕掛けたのが自分だという事をすっかり忘れて裕壱の態度に腹を立てる。
結局、居場所が無くなり、週末のお泊りはおあずけ、となった。
『帰る…』
と言った渉を架月は引き止めもしなかったのだ。 先週は、期末試験のせいで一緒にいられなかったのでやっと二人の時間が持てると、はしゃいでいたのに…
「……架月……俺の事、嫌いになっちゃったのかな…?」
そんな事を思ってしまったら…ますます落ち込むのであった。
一方、一人になった部屋で裕壱もまた、自己反省をしていた。
(…ちょっと大人気なかったかな……)
先週の埋め合わせの分も一緒の時間を楽しもうと思っていたのは裕壱もまた、同じだった。なのに唐突に渉が怒り始め、自分の大好物にケチを付け始めたのである。心ならずもマジ切れしてしまったのである。
(……本当は…嬉しかったのに……)
自分の為に台所に立つ渉の背中を見るのが、裕壱は大好きなのである。最近は、何かと料理をしてくれるので、内心、嬉しがっていた。なのに…
裕壱は、マンションの鍵を握ると薄暗くなり始めた外を見やった。
「……もう……三日……」
昼休み、教室に渉の溜息が響いていた。
「なんだよ、しけた顔しやがって」
川村が思い切り、渉の後頭部を叩く。
「……痛ってぇ〜〜っ!何すんだよ!!川村っ!!」
「何じゃねぇだろ?ったく…この前から悲劇の主人公みたいな顔してさ。架月と喧嘩でもしたんだろぉ?」
「…ぐっ…!」
一瞬で変わった顔色に、
「……図星か………」
「……だってさぁ………」
渉はここぞとばかりに先日の出来事を告げた。最後まで聞き終わった川村は冷たかった。
「…ただの痴話喧嘩、だな……」
「…なんだよ……川村まで………」
渉は今にも泣きそうな顔をして、川村に縋った。
「俺、どうしたらいいと思う?」
「…謝る」
「そ、それが出来たら苦労はしないってのっ!!」
…なんだかなぁと、川村は、呆れ顔になった。成り行きだったのだろうが、二人の恋が成就する過程を見る羽目になり、同級では唯一だろう二人の関係を知る自分は、今まで何度、こんな場面に巻き込まれて来たのか…
その度に親友の犬も食わぬ愚痴を聞かされる自分の身にもなってみろと、大声で言いたかったが、本人的には、マジでどうしたらいいのかわからないだろうと言わないでおく事にした。
「ま、もう少し時間置けよ。で、やっぱり、お前の方から謝ったほうがいいんじゃねぇの?直接言いにくかったらメールでもすりゃいいじゃん」
目から鱗。
川村が的確な助言を発言。
渉は川村に後光さえ見えた気がした。ただ、自分のした事を悔いるばかりで、先に進めなかったのが恥ずかしくさえ思えてきた。
「ありがとう!!川村!!持つべきものは、何でも言える親友だよなっ!」
すっかり青春モードになった渉は手付かずだった昼食のパンを頬張り始めた。
放課後、裕壱のマンションへ行こう。もしかしたら、裕壱も自分を待っているかもしれないと。渉の心は、一気に軽くなった。
『先日の手紙、読んで頂けましたか?毎日、あなたの笑顔を見るだけで幸せです。もう少し、あなたに近づきたいと思ってしまうのは?我侭でしょうか? 恋しい藤井渉様 あなたを想って眠れないたんぽぽより』
「…また、だ…」
ホームルームもそこそこに昇降口に駆け込んだ渉だったが、下駄箱の中に先日と同じ封筒を見つけて、慌ててポケットに捻じ込んだ。
そう、同じ相手からの2度目の手紙だったのだ。
実は、1週間前に貰った手紙を渉は無くしていた。学生鞄の中をいくら捜しても見つからない。落としたのかと来た道を引き返してもみたが、無かった。差出人は不明だか、自分の名前は書いてある、誰がが拾ったとしたら、なんらかのリアクションがある筈だと、それきり、忘れていたのだが…こうして同じ封筒を目の前にして、少し、渉の胸は痛んだ。
自分の事でいっぱいで、差出人の気持ちを考えていなかったなぁと、反省。
今まで、ラブレターを貰った事など無い、とは言わない。裕壱と付き合う前はそこそこの数の手紙を貰っていた。指輪を薬指にしてから、ぱたりと手紙は来なくなっていたのだが…
「…相手がわからなくちゃ、話も出来ないじゃないか…」
自分には、付き合っている相手がいます、と、出来れば早めに伝えたいのだか、この手紙の主は、素性を明かしてはくれない。ただ、渉を好きだと書いているだけで、緑陽高校の生徒なのか、他校なのか、それすらわからない。
「…どうしたらいいんだろ……」
まさか、架月には相談できないよな…と、渉は、思案した。
何処かで誰かが自分の事を思ってくれている。それは不快な事ではない。 だが、今の渉には、裕壱との時間がすべてで、他には何もいらなかった。たぶん、この先も変わらないであろう自分の心に正直でありたいが為に、早く手紙の件を解決したかった。
その上、思いに答えられない自分を思って誰かが苦しんでいると考えると、胸が苦しくなって来るのだ。
「早く、なんとかしなくっちゃな………」
当ては無かったが、相手が名乗ってくれるまで、とりあえず待つ事にした。
渉が帰った部屋で裕壱は、窓の外を見ながら、一人で呟いていた。 どうしていつもこうなんだと自分を責めていた。あんなに嬉しそうに自分の為に昼食を作ってくれたのに。たかが、好みの違いで、その思いを無駄にしてしまうなんて。 出逢った頃より、欲張りになっているのかもしれない、と裕壱は思った。自分が渉を好きな分、同じだけの思いで返して欲しい、いや、もっと、もっと、自分以上に好きになってもらいたい。自分のすべてを好きでいて欲しい。
「…何を今更、じたばたしてんだよ……いや、今更、だからなのかな…」
自分の気持ちを再確認出来たところで、やはり、やっと出来た二人の時間をふいにすることは無いと思った。
「今日は、やりすぎた…まだ、その辺に居るかもしれない…」
渉の後を追おうと向かった玄関で1枚の紙切れを拾った。何気なく拾い、確かめてみる。
『…いつもあなたを見ています。あなたの笑顔が好きです。いつか、私に気づいてください。大好きな藤井渉様へ。あなたを想うたんぽぽより』
「…なんだ?これは……」
察するに「ラブレター」差出人は不明。宛先は、渉。
「…渉が……ラブレター……?」
裕壱が卒業してしばらく経つ。違う学校に通う二人には、互いの知らない時間も増えた。ましてやもともと裕壱ほどではなくてもそこそこ持てていたのだ。ラブレターの一つや二つ、貰ってもおかしくは無い。しかし、自分の所へ来るのに無警戒に持ってくるだろうか…取るに足らない手紙だったら家に置いてくるのでは…
いつの間にか裕壱の思考を支配してしまった渉への不審。
つけっぱなしのTVが、午後7時のニュースを流し始めた。
「………渉」
その日、とうとう、裕壱は渉に連絡する事が出来なかった。
「…まだ、帰ってないのか……」
息を切らして飛び込んだエントランスで押したルームナンバーからはなんの返答もない。
考えてみれば、自分は学校が終わってココに直行したのである。バイトがある日は帰るのが、いつも8時過ぎなのだ。
「…まだ、5時半、だもんな……」
合鍵は持っている。しかし、喧嘩真っ最中としては、それを使いたくは無かった。
「どうしよ…」
途方に暮れた渉は、藍色に変わりつつある空を恨めしそうに見上げた。出来る事なら、この気持ちが萎えないうちに裕壱に逢いたかった。
『お前、俺のこと、好きなの?』
渉はまだ自分の気持ちを計りかねていた頃に心が聞いた裕壱の声を思い出していた。
緑陽高校一番の優等生。その地位を惜しげもなく捨てたのは、誰の為だったのか…もちろん、勉強は常に上位をキープ。卒業式には答辞まで任された秀才、には違いなかったが…二人の思いが通じ合って、しばらく経つと裕壱の指輪の事が噂になった。
『恋人がいます。』 という印の薬指の指輪。全校の女子が、その相手を探り、常に裕壱に付き纏って来た。そんな裕壱を見ていられなくなり、学校では、指輪を外そうと渉の方から提案した事もあった。だが、裕壱は、それだけは絶対にイヤだと子供のような駄々をこねた。
それが自分を思ってくれている証なのだと内心すごく嬉しかったが、何をするにも指輪の事で揉める裕壱を見ることもそろそろ限界だった。
そんなある時、何度目かの女生徒の攻撃を受けた。 運悪く一緒だった渉も彼女らに囲まれ、やっぱり、藤井くんの妹と付き合っているんでしょう!最近、あなた達いつも一緒だもの!と、少しだけ、的の外れた疑問をぶつけられた。
何も言えない自分が切欠だったのか。
裕壱は、次の朝、全校集会で『恋人宣言』をしてしまった。
『僕には、今、付き合っている人がいます。どうか、これ以上、僕達を詮索するのは、やめてください。やっと想いの通じた大切な人なんです。どうか、お願いします』
壇上の裕壱は、眩しいくらい凛としていて、そして…真っ直ぐに渉を見詰めてた。
隣で川村がそんな顔してちゃマズイと、小突いてきたが、そんな事にかまってはいられなかった。自分の為にプライベートを人前に晒すという事をした恋人の顔を見続ける事で精一杯だった。
「…あん時の架月……カッコよかったなぁ………」
それ以来、女生徒は諦めたのか、二人の時間を邪魔されるような事はなかった。裕壱はアレで自分の人望が無くなっても構わないと思っていたらしいが、人間の心というものは、面白いもので、大切な人の為に自分を犠牲にした優しい王子様、などという評判がついてしまったのだ。
もう今更何を言われようと構わない、渉さえ俺の側にいてくれたら…と、その日の夜、不埒にキスを仕掛けて来て……渉は、性急に高みへと追い上げられ…
「…待ってって、言ったのに………」
あの日の裕壱の指の動き一つ一つを鮮明に思い出し、胸の鼓動が早鐘を打ち始めた。早く、裕壱に逢いたい、逢ってあの体温を感じたい。
「…俺…たった三日、架月に逢えないだけで……」
もう、こんなだ……と、そっと自分の肩を抱いてみた。
だめだ、体温が違う。渉は悲しくなった。他愛も無い事で怒ってしまった自分に腹を立てていた。もう、喧嘩はよそう、こんな想いはこりごりだと、待ち人の来る方向へ笑顔を向けた。
「いいのか?珍しいな、お前が飲み会、付き合うなんてな!」
「あぁ……」
「でも、正直助かったぜ。お前が来る、ってだけで、女の出席率、上がるからな!!」
手放しで喜ぶ同級生に愛想笑いをしながらも、裕壱の頭は、渉の事だけだった。
そんな状態で同級生の思惑通りに進むはずも無く、結局、一言も話さない裕壱を怒り、合コンは早々にお開きになった。無やり誘った同級生が、帰り際「お前のせいだ」と捨て台詞を吐く事は、忘れなかった。
「どうしても出て欲しいと誘っておいて、その言い草はなんなんだ…ったく…こっちは、バイトを休んでまで……」
ふと見た時計は、午後10時を指していた。
「…無駄な時間だったな……」
自分がこうして出たくもない合コンでイヤな思いをしているのは、誰のせいだ?裕壱は浮かんだ名前を口に出した。
「……渉」
手紙。
そう、あの手紙を拾ってから裕壱は、渉を避け始めた。こんな状況で、自分は何処まで優等生ぶるのかと自嘲していたが、理屈では説明出来ない感情が、支配し始めたのだ。
渉の心は自分にある。 そんな事は、わかっていた筈。なのに…どうしてこんなに不安になるのか…アイツ…浅香と一緒の渉を見た時でもこんな気持ちには…
「…ならなかったんだ…こんな…足元が崩れてしまいそうな、感覚は……」
それがどうしてなのか…考えてしまえばいい、答えを出せばいい。だけど、怖くて、出せない、答え。
それが現実になった怖さを裕壱は知りたくもないと思った。
「…聞けばいいんだ。簡単、なのにな…怖いよ、渉…お前の言葉が……」
間近になったマンションの黒い影を見上げた裕壱の眼を正面から来た車のヘッドライトが焼いた。
「…………っ!?」
数秒間、視界を奪われた裕壱はゆっくりと、眼を開け、エントランスを何気に見た。
――誰か、座ってる…?
管理がしっかりしていて治安のいい筈なのに浮浪者でも入り込んだのかと、裕壱はその男を確認する為に小走りになった。 だんだん視界を占めてくる男の影は、自分の良く知っている影に見え、それが、確信に変わった時、裕壱の足は止まってしまった。
今は、逢えない。 裕壱は、そのまま、踵を返した。
「……お前…壮絶な顔、してんな……」
「……かわぁむらぁ〜〜〜」
「うっ!!そ、そんな眼で俺を見るなっ!!」
陽光が綺麗に差し込む教室で渉は、前日にも増して、窶れ果てた顔をして、川村の手を取った。
「な、なんだってんだよ!お、お前…まだ、謝って…ないのかよっ!!」
まるで亡者のように縋りつく渉を川村は本気で怖がっていた。その川村の一言に渉の大きな瞳にうるうると涙が滲み始めた。
「…や、やめてくれ…渉……か、仮にもお前、男、だろ…?」
本気でガタガタ震えながら、それでも親友の負担を少しでも軽くしてやろうとなんとか、言葉を探していた。
「だぁってぇ〜〜謝ろうにも…架月………アイツ……うっ…!…夕べ、帰って来なかったんだぁ〜〜〜っ!!」
時計の針が、11時を指した時、さすがに冷え込んで合鍵を使って裕壱の部屋で待つことにしたのだ。だが、待ち人は、とうとうその自室の扉を開けることはなかったのだ。
外泊。 その事実だけが渉を打ちのめしていた。いったい何がどうしてこんな事になったのか。単なる痴話喧嘩。そう、川村の言葉を借りればそういうことだった筈だ。
なのに何故こんなに逢えない日が続くんだ??これって相当まずい状況じゃないのか?とにかく裕壱に逢わなくては、でも、マンションには帰らなかったのは、実家、という事もあるよな、それに2日も留守にする筈は…今夜はきっと逢える。渉の思考は、コンピューター並にデータを弾き出していた。
「と、ところでさ、渉、最近、変わった事、無かったか?」
「変わった事?大ありだよ!」
「そうかっ!!で、ご感想は??」
「…川村……お前、おちょくってんのか……今、俺達、喧嘩真っ最中だって今、言ったじゃんかっ!!変わった事なんてありすぎだよっ!!」
「あ…そっちのほうか………ま、今は、それどこじゃないか…」
「…なんだよぉ…一人で勝手に納得してんなっ!…くそぉ……お前まで俺を見放すのかよぉ〜〜」
川村の本当の意図など気づく筈もなく、渉は自分の感情を抑えるので精一杯だった。
「とにかく、架月に逢わなくちゃ…」
授業終了のベルと同時に教室を飛び出した渉は、裕壱の通う大学に向かっていた。
(マンションがダメなら大学に行けばいいじゃないか。なんだってそんな簡単な事に気づかないんだよ、俺って…)
乗り込んだ電車は、軋んだ音を立てて裕壱に向かって進み続けた。まだ、暖かい日差しが背中越しに当たる。車外を流れる風景は、いつもと同じで二人が逢えない時間を錯覚させるような穏やかさ。
なのに、何度も見た風景なのに、隣に裕壱がいないだけでこんなに味気ないものになってしまうなんて…渉は、自分にとってこんなにも裕壱が必要という事を身体が震えるほど心から感じた。
裕壱に逢ったら一番に謝ろう、100歩譲って冷やし中華のマヨネーズは我慢するから。
マヨネーズより、裕壱に逢えない事のほうが、100倍、つらい、って… 渉は、ちゃんと言えるように小声で何度も裕壱に伝える言葉を練習していた。
「…架月…………」
校門から少し離れた場所で、裕壱が出てくるのを待っていた渉。ふいに声を掛けられ裕壱は、驚いた顔で振り向いた。そして…声の主が渉だと知ると、少し、つらそうな笑顔を見せた。
「架月…?」
「…やぁ、久しぶり………」
――なんだよ、他人行儀な挨拶……
と、突っ込みたいところだったが、裕壱が強引に腕を取り、走り出してしまい、そのまま、されるがままになってしまった。
息が苦しくなって来た頃、ようやく、裕壱は、止まった。
「…はぁ……はぁ……な、なんだよ…急に………」
「…お前こそ………」
「………………?」
いつの間にか、川原まで来ていたのか…渉は額を流れる汗を拭いながら、こちらを見ようともしない恋人の横顔を見つめた
。
「…いいのか…?こんなとこに来てて……」
「何?どういう、意味……俺は……!」
怒鳴りそうになって渉は、慌てて口を塞ぎ、深呼吸した。
(…違うだろ…俺は、架月に謝りにきたんだ。喧嘩の続きをしに来たわけじゃない)
もう一度、深く深呼吸してから、
「こっち向いてくれよ、架月…」
心なしか、元気の無い裕壱は、ゆっくりと渉のほうへ向き直った。
数日ぶりに間近で見た裕壱は、やっぱり綺麗で、渉は、言葉に詰まった。
(い、言わなきゃ…俺が、悪いんだから…)
「架月…俺…!……ごめん!!」
あんなに練習したのに、渉の唇からは、それ以上言葉が出なかった。正面から見た裕壱の瞳が自分を、映してないように見えたからだ。
「どうした、んだよ……架月…」
渉は今にも泣きそうになっていた。こんなに遠い裕壱は初めてだ。
やっと逢えたのに…裕壱は、本気で自分を嫌いになってしまったのだ。渉は自分の言動をひどく後悔した。意地なんて張らずにすぐに謝ればよかったんだ。
あんまり、穏やかな時間だったから…
二人で過ごしてきた時間が、あんまり、心地よかったから…
(…俺…甘えていたんだ……架月の気持ちに…俺がどんな事言ったって架月は、許してくれる、そう、思って……バカだよ……人の気持ちは、変わるんだ…)
自分の気持ちは何も変わっていないというのに、目の前の恋人の気持ちは変わってしまったのだ。自分の他愛もない言葉で。
きっと裕壱には許せない一言を自分は言ってしまったのだ。
そんな後ろ向きな考えばかりが渉の思考を支配して、涙が、溢れてきた。止めようとしても、次から次へと流れる涙に渉は顔を上げる事が出来なくなった。
そして、何も言わない裕壱に別れを告げようと、精一杯の強がりで顔を上げ……
「……………架月っ!?」
渉の企みは、裕壱の強すぎる抱擁に阻まれた。
「……だめだ…」
裕壱は、抱き締めた腕に力を入れながら、そう、呟いた。
「…架…月……」
理由を聞く間も与えられず、待ち望んでいた温もりに唇が包まれるのを感じた。触れた唇は、いつもの優しさで…変わらない温かさで渉を包んだ。軽い音を立てて離れた愛しい温もりを離ししたくなくて、渉はもう一度、口付けをねだった。自分から触れて行った唇に与えられた想いは、変わらない想い。
触れてわかった。 裕壱の心はなんにも変わってはいない。じゃぁ、なんでこんなに俺達……
「…な、なぁ…架月…」
弾み始めた息をかろうじて、抑えながら渉は、確かめようとした。二人が擦れ違ってしまった、理由(わけ)を。
しかし、裕壱の口から出た言葉は渉が欲していたモノとは絶対的に違っていた。
「…なぁ…俺達、このまま一緒でいいのかな?」
「………えっ……?」
(なんで?なんで?どうしてなんだよ…架月…)
自問自答しても答えなんてある筈が無くて。裕壱の心が変わってないと感じて、もう一度ちゃんと謝ったら元の時間に戻れると思ったのに…
そして裕壱は、少し考える時間が欲しいと、渉の側を離れた。渉はただ、遠ざかっていく背中を見送るしかなかった。裕壱が本気の決心をしていたから。
それからの数時間が記憶から欠落していた。どうやって自宅に帰りついたのかもわからなかった。 どうやって、朝を迎えたのかも。眠った記憶は無かった。
永遠に続くかと思われた夜は、渉の思いには関係なく、時間を確実に刻んでいたのだ。
明けない夜は無い。
どっかの小説によくあるフレーズだ、と渉は笑った。
『愛しい渉様。あなたの元気のない様子に心配しています。
私の言葉なんてなんの慰めにもならないかもしれないけれど…
私はあなたの太陽のような笑顔が好きなのです。どうか、元気を出してください。
あなたの日差しが恋しいたんぽぽより』
「あぁ…彼女からか…」
3通目の手紙。相変わらず名乗るつもりのない差出人の言葉が今の渉には嬉しかった。宙ぶらりんの気持ちをどうしたらいいのか、わからない、渉にとって…
「なぁ、川村…」
何故か朝から弁当を食べている川村を横目に渉は話してみようと思っていた。差出人不明の手紙のことを。
「…お前さぁ…ラブレターって貰った事…ないよな……」
「…ぶふっ!!な、なんだよ!朝ッぱらからイジメかぁ?」
口に頬張っていたご飯を勢い良く机にばら撒き、咽ながら言う。
「いや…俺さ、この間から差出人不明の手紙、何回か貰ってるんだ」
一瞬、川村の目が輝いたように見えたのは渉の錯覚か?しかし、川村の真意を測るには渉の心は消耗しきっていた。
「正直…面倒だなって思ってた。だって顔も知らない人から告白されたってさ、どうしたらいいかわかんないよ」
「……で?」
「うん…今さ、俺、架月と喧嘩してんだろ?そしたら…俺の事、元気ないから心配だって手紙に書いてあったんだ。なんだか、嬉かったんだ。誰かが自分を見てくれているってやっぱ嬉しいことなんだよなって、さ…」
渉の視線はいつの間にか窓の外を流れる雲を追っていた。出来ればお礼を言いたい、名前も知らない彼女に…そう、渉の心に暖かい感情が流れていた。
「…あのさ…ちょっと確認したいんだけどさ…」
歯切れの悪い言い方で川村が渉を覗き込んできた。
「何?」
「あのさ…お前と架月の喧嘩の原因ってホントに冷やし中華、だけ?」
「なんだよ…おかしな事、言って…ホントだよ…マジ、それだけ……」
「そ、そっか…」
あからさまにホッとした川村の様子に渉は何か、臭う、と思った。長年の感、みたいなもの?
「おい…なんか、俺に隠していること、ねぇ…?」
渉は、痩せて眼光鋭くなった目を川村の至近距離に置いた。じりじりと川村が後ずさる。後の無くなった川村のお尻が勢い良く机に…その時、床に見覚えのある封筒が滑り落ちた。
「…………れ…?」
見覚えが…と渉が言う前に川村が、土下座した。
「すまん!!」
以下は川村の懺悔記録である。
事の発端はこうである。 順風満帆な渉と架月。二人がうまくいけばいくほど、自分の出番は減っていく。週末どころか平日でさえ、約束を反故にされる。それはそれでいいと思っていた。自分は同性には興味がないし、親友が幸せなら万々歳じゃないか。
そんなある日、暇を持て余し、読んだ雑誌が悪かった。母親が居間に置きっぱなしにしていた女性週刊誌。
『実録!長すぎた春は実らない!?彼と彼女の馴れ合いが起こす悲劇!』
「ふぅん…やっぱ、刺激のある恋愛がいいのかねぇ…」
川村の思いっきりの勘違いである。
故に…二人はもう少し刺激があったほうが…と余計な世話を焼いたのである。あのやきもち焼きの架月の事だ、渉に思いを寄せている女性がいると知れば、今まで以上に渉を…ある意味、可愛がるだろう。そうなったら渉はもっと幸せに……
「ったく…それのどこがどうなって、そうなってんだよっ!!」
渉も混乱の極地だった。 つまり、あの差出人不明の手紙の主は「川村」だったということだ…
「よくもあんな…可愛い文面を……」
「なっ!よく書けてただろ?俺、小説家に向いてるかもなっ!」
「……川村っ!!」
凄みの効いた声が飛ぶ。
「…反省!!」
「は、はいっ!!」
川村は再び、土下座をする事となった。
もしかしたら…架月はあの手紙を読んだのかも知れない。最初に貰った手紙だ。いつの間にか無くなっていた。確かあの日、裕壱のマンションに行く約束をしていてホームルームが長引いて焦っていた。あの時手紙はどこにしまったのか。ズボンのポケットに捻じ込んだままだったのでは?記憶の糸を手繰りながら渉は裕壱の事を思った。裕壱なら、あの手紙を読んでもなんにも言わないだろう。きっと自分の中で、勝手に答えを出して…
「…俺の気持ちなんてお構いなしの答えを出したに決まってる!」
そう考えれば辻褄があう。急に変わった態度。気持ちを押し殺しているような態度。
「…架月のばか!」
渉はただひたすら裕壱に向かって走っていた。辿り付いた裕壱のマンション。無人の部屋。
「まだ、帰ってない、か…」
渉は早鐘を打っている鼓動を鎮める為にコップに水を注いだ。水はコップの許容量を越え、縁から盛り上がり、やがて滑らかな硝子の壁面を流れ落ちる。
溢れる、想い。
「俺と、同じだ…」
中身を一気に飲み干して、いつものソファに身体を沈めた。真正面の扉を開くのを待つ為に。
「あの扉が開いたら…」
なんて言おう。勝手に勘違いして、勝手に自己完結してしまった大好きな人に。
あのまま想いがすれ違っていたら未来(あした)は来なかったかもしれない。 だけど原因がたとえ川村のいたずらだったとしてもそんな事で自分の心を二人の心を疑うなんて、仕方ないヤツだと渉は笑った。
「帰るか…」
バイトの残業までこなしてロッカールームで私服に着替えた裕壱。左手の時計は、夜の11時を指していた。そして、銀色の指輪が眼に入った。
「渉…」
あの日から…
(…あの日からこうして何度アイツの名前を読んだんだろう…ったく…らしくないな…たかがあんな手紙ひとつで…)
裕壱の心を過った不安。 自分が恋して焦がれてやっと手にした幸福の時間。それは、もともと一方通行の想いだった。叶う筈のない。だけど、奇跡は起こった。
渉は自分の腕に抱かれた。 想いは成就した。だが、それが不変だと誰が言える?初めから不安定な土台の上にある想いだ。いつかバランスを崩すかもしれない…渉が…自分との付き合いを一時の情熱だったと後悔する日が来ないとも限らない。渉が自分より、愛している女性(ひと)が現れたら…渉が自分を疎ましく思う日が来るかも、しれない……
「それが…この手紙の女性かもしれない…」
一度気づいてしまった想いは止まる事を知らなかった。どんどん大きく重くなり、裕壱は自らの想いに身動きが出来なくなった。
渉の顔を見ることでさえ、つらくなってしまったのだ。
「結局俺はなんにも変わってないって事か…」
自嘲的な笑いが浮かぶ。温度を失くした指輪が少し、重さを増した気がした。
空を紅く染めていた太陽が顔を隠すとそこに灰色の雲が垂れ込み始める。南東の風が裕壱の横顔に吹き付けてくる。その風は一歩ごと強さを増す。
「あぁ、そういえば台風が近づいてるって言ってたっけ…」
それはまるで人事で、帰路を急ぐ気配さえ、現さない。今にも泣き出しそうな空が裕壱の影を覆い尽くそうとしているようだった。
マンションの10階。裕壱の部屋の窓を雨混じりの風が叩き始めた。風と一緒に舞い上がった木の葉が暗い窓に張り付く。
「…風、強いな……」
スタンドライトだけの部屋はすでに夜の闇の中だった。しかし、メイン照明を点ける気にもならず、ただ、窓の下を見つめている渉。
今度こそ、仲直りしよう。 妙な行き違いだったんだ。間違い、なんだよ、架月の答えは…
額を当てた窓ガラスは冷たくて、火照った頬にはちょうどいい感じだった。
「俺、相当緊張してんな…」
もう一杯水を飲んで落ち着こうとして台所に足を向けた時、一筋の雷光が視界を過ぎった。
「……………っ!?」
かろうじて閃光から眼を逸らした渉だったが、次の瞬間、部屋の明かりがすべて消えていることに気づいた。
(…停電…?)
明かりの消えた部屋は見慣れたものでさえ、得体の知れないものに変えていた。今、この部屋は自分ひとりしか居ない、自覚してしまって恐怖が這い登ってきた。知らずに身体が震えてきた。
「……架月……た、助けてよ…」
こんな時に口をついて出る名前はやっぱり、架月裕壱だけ……
「渉っ!!」
たかが停電くらいで、とわかっているのに渉の瞳から、涙が溢れてきた。このまま、架月に逢えなくなったら…不吉な考えが過ぎった時、声がしたのだ。
「……か、架月…」
「やっぱり、いたな……」
雨に降られたのだろう。裕壱のしなやかな髪は濡れて、額に落ちていた。
「架月!!」
渉は全身で裕壱にぶつかっていった。少しよろめきながら受け止めた裕壱の腕は渉の涙を止まらなくした。
「ごめん…ごめん……!」
何を言おうと思ってもただ、その言葉だけで…
「さっき俺の部屋に電気が点いてたからきっとお前がいると思った…」
うん、と声を出さずに頷く。
「怖いのか?…肩、震えてる…」
「ば、ばか…たかが停電ぐらいで…」
「……嘘つき…」
裕壱はもう一度腕の中の温もりを確かめるように背中に回した腕に力を込めた。
「架月…俺……」
「うん…俺も…限界だったからさ…嬉しかった…たとえ、渉が何を言いに来たとしても…」
なんだよそれ…
渉は全身で抗議した。やっぱり裕壱はあの手紙を読んでいたのだ。
「架月…黙って俺の言う事、聞いてくれよ?」
胸の鼓動が早さを増した。それがどちらの鼓動なのかわからないほど二人はぴったりと合わさっていた。
マヨネーズの事、意固地だった事、そして川村の手紙の事、話を進めていくと鼓動は元の速さに戻っていった。
「………………」
暫くの間、裕壱はいろいろ考えをめぐらせているかのようだった。渉はただ、裕壱の言葉だけを待った。
「…渉には勝てないな…」
「えっ…?」
「俺の気持ちをこんなに狂わすヤツなんてお前しか居ないって事だよ」
「な、何を…」
間近の瞳が優しさを増して渉を見つめたから静まった筈の鼓動は別の熱さでリズムを上げていった。
「悪かった…」
「うん…俺も…」
「怖かったんだ…お前の気持ちが変わってしまうんじゃないかって…いろんな事を考えたよ。渉が俺にとってどんな存在なのか、渉は俺をどんな存在に想っているのか、四六時中、お前の事だけを考えてた…」
裕壱の声が少し震えていた。泣いて、いるのだろうか。渉は身動き出来ない温もりの中で思った。
架月が泣いてる…自分と離れる事が怖くて泣いている。もろちろん、離れる事なんてありえない。自分の心は何にも変わってないのだから。
「架月が心配になる必要はないんだ、俺はいつだって架月の事を思ってる、俺こそ、架月がいないとダメなんだ…」
「渉…!」
たぶん、それが裕壱の限界だったのだろう。物も言わせぬ間に裕壱は渉と唇を合わせた。何度も何度も繰り返す、口付け。鼓動が濡れて互いの間を行き来する。もっと、欲しいと。
「か、架月!?」
「黙ってろ…渉が足りないんだ…」
明かりがすべて落ちた部屋の中で素肌を晒していく。時折空を引き裂く雷光が露わになった肌を照らす、一瞬だけ…
コマ送りのような情景が渉の視界に現れる。コマが変わるたびに裕壱の顔も変わった。泣き笑いの顔が熱を孕み、欲を孕む…互いの名を呼ぶ声はもう、音の形を成していなかった。すべては濡れた唇から漏れる溜息の中に紛れた。
刹那の光に裸身を晒し、跳ねる肢体が綺麗だと、裕壱が囁く…求めて焦れている裕壱の顔が好きだと渉が呟く…
互いに足りなかったのは、二人の思い、体温、触れ合う時間。
充足する為に貪るような愛撫を繰り返す裕壱の指は渉を性急に高みへと追い上げる…
「…ぁあ…架…月……も、う………」
高ぶった熱を撫で上げられ、一気に熱を放つ。
「…はぁ……はぁ……苦し…いよ…早す…ぎ……」
真っ赤になって抗議する渉の言葉に耳を貸すそぶりもみせず、まだ、大きく上下している胸に再び唇を落とす。
「…か、架月……!ダメ、だよ…時間……」
壁の時計が真夜中の12時を微かな電子音で伝える。
「なんだ…時計の音を聞く余裕が渉にはあるんだ…手を抜いたつもりは無いんだけどなぁ…」
「………!言ってろ!!」
身体を重ねる時、いつも主導権を握られ悔しい思いの渉。さっきまでの気弱な裕壱は何処だ?と、おかしくなった。だるさの残る身体をどうしようかと思案していると、
「悪いけど…渉は今夜、帰れないよ?」
渉は家の人に何にも言っていない事が気になりだした。外泊したからといって目くじらを立てるような母親ではないが、裕壱との付き合いを止められるような事は極力避けたいと思い、出掛ける時はいつも断っていた。
「…んだよ……無断外泊したら、怒られるって…」
「…つれないなぁ…久しぶりのセックスなのに渉はお母さんのおっぱいのほうが恋しいって?」
「…………っ!?」
「残念でした…意地悪で言ってんじゃないよ。ここ、オートロックだろ?」
「うん…」
「で、今は停電中だろ?」
「…そうだけど…」
「じゃ、マンションの入り口は開かない」
「………………!!」
「そう言う事」
裕壱が軽く声を立てて笑う。
硝子1枚隔てた向こうは嵐が吹き荒れている。先刻までの二人の心の中のように。
しかし、避難を完了した心は風に吹かれて揺れる事は無い。それはきっと永遠に変わらないだろう。思いは真実だから。
強く思えば願いは叶う。そう信じてもいいかしれない、裕壱は渉の笑顔は見下ろして思った。
「じゃ、そう言う事で…」
「えっ…?ええっ!?『じゃ』ってなんだよ!じゃあってっ!?」
胸の突起を強く吸い上げられて渉は息を呑んだ。まだ、甘い余韻の残る身体は裕壱の思惑通りの反応を返す。
「…渉……好きだ…」
裕壱の告白はいつもこんな時だ、渉は文句を言ってやりたかった。自分が裕壱でいっぱいになっている時、唐突に裕壱は言う、渉を好きだと。同意の意思を示したいのにそれを許してはくれない。突き上げる快感に渉の言葉は封印される。言葉を告げられない代わりに腕を強く絡める。それが裕壱の指を煽る。
欲望の波に攫われながら、快楽の声を上げ続ける。触れ合う、確かな、温度に……
「…さっき…四六時中俺の事を考えてたって言ったよな…」
「あぁ……」
いつの間にか窓を叩く風はどこかに去っていた。
「じゃあさ…俺、得したな…」
「えっ…?」
「離れている間、架月はずっと俺のことだけを考えてくれてたってことじゃん、これって得した事にならない?」
喧嘩の原因を作ったのは自分のくせに。裕壱の眼はそう言っていたが、いいじゃん、と渉が笑う。
「…やっぱり、渉には勝てないよ」
「んじゃ、今度から俺の事、渉様って言えよな?」
図に乗りやがってと、裕壱がまた、唇を奪う。
「…架月…俺の前で優等生、しなくっていいんだからな。どんな架月でも俺は見ていたいから…」
寄せ合った二人の心が再び、一緒の時間を刻み始めた。
「あれ?入れないの?マヨネーズ…」
「…ん…まぁ……な……」
「俺、入れていいって言ったじゃん。無理すんなよな」
「無理なんてしていない…」
「だって好きなんだろ?架月、マヨネーズ掛け冷やし中華」
「だから…いいんだよ、今日は」
「架月また、優等生してんじゃないだろうな!!」
「渉…………」
「あっ……やべっ……俺、また……」
当分冷やし中華を食べるのはよそうと決めた架月裕壱だった。
まだ、残暑厳しい昼下がりの事…………
END