神罰

〜Judgment of God〜

序章
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「…だいぶ、降ってきましたね」
窓硝子を叩く雨の音が、すべての物音を消していた。流れ堕ちる雨粒が、戸外とを隔絶する。
鏡を模した硝子にシンの憂い顔が映る。下界に降りて二週間が過ぎていた。
「あの方は今、何をしていらっしゃるのでしょうか」
全知全能ゼウス。その大いなる愛に包まれ天界は、穏やかに統治されていた。いや、されていた、
と呼称したほうがいいのだろうか。
ここ数ヶ月、下界にて不穏な動きが見え始め、それがゼウスの力が衰退し始めた予兆ではないかと噂されていた。
六聖獣を始め、上位天使はもちろん、下位天使に及ぶまで、その噂を払拭すべく、ゼウスが次々に下界へと送り込んでいた。
些細な出来事も見逃さず、すべて、解決すべしと…
シンもまた、例外ではなかった。
黒兎の守護天使アリエスが主人と共に暮らしていた街で次々と人間が姿を消すという事件が起きていた。その不可解さが、魔物による仕業ではないかと調査を命じられたのだ。
サン=ジル。下界の田舎町で起こった行方不明事件。リセオン学院の裏に広がる檳榔樹(びんろうじゅ)の森。その奥に足を踏み入れた者が、忽然と姿を消す。そんな奇怪な事件が続発していた。アリエスの主人もまた、数日前よりその姿を消していた。
「シン様」
背後から声を掛けられ、ゆっくりと振り向く。そこには、雨に濡れたアリエスの姿。
「おかえりなさい。どうでしたか?」
優しく尋ねてみたが、アリエスの視線には力が無かった。
「そう、ですか…今夜はもう、おやすみなさい。この雨が上がったらまた、調査を始めましょう」
「…はい」
そして、再び、部屋の扉は閉じられ、一人になるシン。
一人の時間は嫌いではない、シンはそう思っていた。しかし、雨音がすべてを消してしまった下界の夜は、人恋しくさせた。
「…ユダ」
唇をついて出た言葉は、燃えるような紅い髪を持つ、孤高の天使、麒麟のユダ…想いを交し合ったのは、つい数ヶ月前。身体を寄せ合い、互いの体温を絡めた時間が脳裏を過ぎる。知らず、自身の肩を抱く。
「………ユダ」
揺れる想いそのままに、硝子に映るシンの姿も揺れた…


『下界へ行くのか?』
『はい、ゼウス様のご命令で』
『そうか…』
『では、行って参ります』
『ああ…気をつけて、な…』
見送る、と雲間に共に立ち、下界を見下ろし、泉の雫を手にしたシンを背後から強く抱きしめその耳元に囁かれる、吐息交じりの言葉…
『…早く、戻って来い……』
『………あ』
『…お前のいない夜は……寂しいからな…』
触れた肌が、粟立つのを理性の向こうに押しやり、シンは笑顔を浮かべた。すぐ、戻ると約束して。

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第一章

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――望む事は、罪ではないのだ。
そう、告げた、ユダの言葉が、甦る…
「シン様?」
アリエスの黒くて大きな瞳が、シンを覗き込んできた。
「あ、ぁ…すみません…ちょっと、考え事を…」
「…想い人の事、ですか?」
「……えっ」
「だって、シン様、とっても幸せそうな顔をなさってましたもの」
顔に出ていたのか、とシンは自嘲した。下界での使命を果たさなければならないというのに、心が乱れている事に気づかれた事を恥じた。
「さぁ、行きましょう。あなたの想い人を探す為に…」
「…はいっ」
再び、両者は森の入り口に立った。幾度か、探索したが、事件の元凶を見つける事は出来なかった。
「もしかしたら…結界が張られているのかもしれません」
「結界、ですか」
「ええ。私達のような天界の者のみが、行く先を惑わされている、のかもしれません」
「では、どのように?」
「結界を張っている呪具を壊せばよいのです。アリエス、この辺りを探索してみましょう」
二手に別れ、森の入り口を探す。結界の元になっているのは、簡単な物に鏡や硝子、または特殊に積み上げた石、複数の枝を絡めて、などがある。古来より、人間の手によって行われてきた、呪術である。ほどなくして、アリエスが地中に埋まった片手ほどの鏡の破片を見つける。
「周囲に石積みがありました。たぶん、これではないかと思います」
「そうですね…アリエス、その鏡をこちらへ」
手にした鏡には、何も映らなかった。これが結界の呪具に間違いなかった。
「少し、離れていてくださいね」
そう諭すとシンは、解縛の呪文を唱え、鏡を粉々に砕いた。次の瞬間、甲高い金属音と共に森の入り口の風景が一変した。
「これが、この森の本当の姿…」
それは、霧に白く煙る森。檳榔樹が複雑に絡み、その奥を隠していた。同時にそのさらに奥から、思念のようなものが流れていた。
「…誘導思念、ですね……」
「誘導思念…?」
「ええ、誰かがこの森全体に呪いをかけているようです。森の奥へと誘っています。たぶん、その思念の発信元にこの事件の原因がありそうですね」
「では、ご主人様もそこにっ?」
「恐らく…」
「では、今すぐにっ」
「アリエス…」
優しい声音がアリエスを抱きとめた。
「…あなたの気持ちはわかりますが、一旦屋敷に戻りましょう」
「……えっ…」
「不確定要素が多すぎます。このまま先を急いでも罠にかかる可能性を拭えません。わかって、くれますね」
誰が意図してこの思念を送っているのか、シンにはそれを確かめる必要があった。それが生者のモノであっても…そして、死者のモノであったとしても…
(…この強い想いには…対策が必要です…あまりに切ない…想いには…)

森の結界を解いたのち、シンは新たな行方不明者が出ないように聖なる結界で再び、その道を閉じた。鏡を割った途端、シンの心に飛び込んできたのは、叶わなかった想いを嘆く思念。逢いたい、逢いたいと繰り返す念にシンは眩暈さえ覚えた。隣に居たアリエスにその思念が及ばないようにするのが精一杯だったほどの強い想い。
「…逢いたい……想い人に、逢いたい…」
(…そう、願うのは悪い事ではない…でも、それが叶わなかったら…人はその思念だけを残し、増幅させ、憎しみにまで昇華してしまうのでしょうか…)
天使とて他を想う心が無いわけではない。永遠の長すぎる時間を共に過ごす相手が欲しいと願う、そして、温もりを求める。
「私とユダは…」
その相手、なのだろうか……シンは自問した。折に触れ、言葉を交わし、共に時を過ごした。あの他には触れさせぬ温もりをもシンは与えられた。
「確かにあの日…私は………」
浮かされた熱の下で、聞いた、あの言葉…結ばれたはずの絆…
だが、逢いたい、そう強く思う。天界と地上、離れている距離が長いほどその想いは強くなるように感じた。

夕べから振り出した雨がやまない。窓硝子を叩く雨音は、すべての音を消し去る。
「寂しい、のでしょうか…私は……」
窓辺に寄り、外を見やったシンの瞳にありえない光景が映っていた。薄闇の向こうに人影。髪を伝う雨を拭おうともせず、真っ直ぐにこちらを見ていたのは…
「………ユダ…」
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第二章

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地上に降りし、孤高の天使。
その瞳は、至高を目指す。
天を支配し、高貴なる天使。
その孤独な心に住まうのは、ただ一人の魂。
たおやかに咲く、静寂の天使。
その揺れる髪にだけ、抱かれる…

「ユダ…」
その名前を口にしなくなって何日が経っていたのだろうか。いや、口にするのが怖かったのだ。
零れた言葉の先から想いが溢れてしまいそうだったから…
だが、名を口にしてしまった。閉じた扉の鍵を開けるのももどかしくシンは、戸外に走り出た。
「久方ぶりだな…」
「……ユダ」
シンは瞬きをする事さえ、忘れ、眼前の光景に酔っていた。
「…お前まで濡れることはないというのに…」
懐かしい温もりが、シンの髪を掻きあげる。
「さぁ、中へ入ろう」
「はい…」
夏の暖炉に紅い炎が灯る。紅色の光彩が、黙してしまったシンの横顔を照らしている。
先ほどの情景は、幻だったのではないか?己の都合のいい『夢』ではなかったのか?
手にした濡れた衣服を抱きしめても尚、危惧が拭えない。のろのろと立ち上がり、背後の扉をみやった。
幻でないのならもうすぐ、その扉は開かれる。愛しい姿と共に。
「火をいれてくれたのか」
「大丈夫ですか?」
「…ああ」
果たしてユダは想いの扉をくぐって、再度、シンの前に現れた。
(夢…では、なかった、のですね)
着替えを済ませたユダは髪をタオルで拭きながらゆっくりとソファに身を沈めた。
「…………」
どうしてと、喉まで出掛かっている言葉。天界にてゼウスの補佐をしていたユダが何故この時期に地上に降りたのか。昨日の報告時には、他の天使が降臨するという話は聞かなかったというのに。
「どうだ、調査は進んでいるのか」
「ええ、どうにか事件の真相が掴めそうな所まで…」
離れていた時間なと無かったように会話が交わされる。それを何処か他人事のように感じている自分がいると、
シンは自嘲した。
「そうか…お前の事だから首尾よく解決にまで導いてくれるだろうとは思っていたが…」
そこで、ふいにユダが押し黙る。翳った顔にシンの鼓動が跳ね上がる。
「…ユダ…?」
「あ…いや……お前を信じてはいたのだがな……」
「………………」
真っ直ぐなユダの視線に絡み取られるシン……その瞳に囚われたまま、呼吸が止まる…
「…どうにも…お前と離れている時間が…耐えられなくて、な…」
「………えっ…」
叱咤、の言葉なのかと考えていた。遅々として進まぬ調査を嘆いて降臨したのだと…
「今、なんと、おっしゃいましたか?」
気のせいだろうか。ユダの視線さえ、揺れて見える…
………
シンは、己が胸に浮かんだ言葉を打ち消した。
「…ユダ…あなたが、そんな…」
しかし、正面からの視線が、シンの想いを肯定していた。
そんな風に見つめないで…
シンは、とうとうユダの視線の中から逃れようとした。
「…シン?」
自身を呼ぶ声に振り向けないまま、衣擦れの音が近づく。その背が覚えた温もりに包まれる。
「…逢いたかった」
言葉は意味を無くし、吐息は、熱を高める…
交じり合った体温がただ、刹那……
ただ、この刻のみ…



逢いたい…
愛しいあなた…
なぜ、来てくださらないのですか…
ああ、寒い…この地は、心が凍えてしまうほど、寒いのです…

…もう…叶わないのなら… この心が叶わないのならば…
…この身を悪魔に、捧げましょう…
そして…あなたを奪う…
たとえ……それが、

屍だったとしても…



静かに森がその様を変化させていった……


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第三章

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窓から差し込む朝日が、白く室内を染める。
それはシンの心の色… 前夜までのくすんだ色は姿を消していた。
「……ユダ…」
シンは未だ傍らで寝息を立てている紅い髪の天使を見下ろした。下界に降り、奇怪な事件を調べるうちに心は重く暗く変わっていたというのに…
「この人は、いとも簡単に…」
―私の心を変える……
その言葉は、音にせず、ただ視線に刻み付けた…


「森を封じる結界?」
「ええ…古来より行われてきた媒体を化してのものでした」
二人の僅か後方に黒兎のアリエスが控え、二人の会話のひと言も漏らすまいと聞き耳を立てていた。
アリエスにとっても愛しいご主人様の救出に関わること。シンと共に調査を重ねてはいたが、
この機知に富む天使の訪問が劇的な変化を齎してくれるのではと願うのであった。すべての書類を読み終わり、一息、深く息を吐く。そして、意を決したように正面から二人を見据える、ユダ。
「森に案内してくれるか?」
「わかりました…」
二人は最低限の会話を交わし、戸外へ続く扉を開け放った。


再び訪れた森の入り口は、未だ、シンが張った結界に守られていた。昼も近いというのにうっそうとした木々に囲まれ、そこは、薄暗く、冷え冷えとしていた。シンは何か、呪文のようなものを唱え、手にした鏡を森にかざした。小さな金属音と共に森への入り口が現れた。
「ここ、か…」
「はい」
「強い思念を感じるな」
「この先に大きな樫の木があります。その洞の中に異界への入り口と思われる場所があります」
「異界?」
「はい。どうやら思念の持ち主は自ら欲しているモノ意外をすべてその異界へと送り込んでいるようです」
ゆっくりと森を進む三人の枯れ草を踏み締める音だけが、いやに大きく響き渡る。生き物の気配が消えた世界。それは、まるで、地獄を感じさせる気配だった。
「私の予想が正しければ…念と化した女性の想い、だと思います。三十年ほど前に…」
シンは、調べた事を基にした仮設を語った。 まだ、身分の差が人間の価値を決めていた時代。想いを通じ合わせた男女がいた。男は街の有力者の一人息子。女は、屋敷に使える使用人の娘。身分を問われぬ地へ二人逃げ落ちようと決めた夜、男は、女を裏切った。男は地位を捨てられなかったのだ。
女は待って待って、待ち続け、その木の下で命を落とした。
「…混沌とし始めたこの時代、その女の念が邪悪の色を濃くしてしまったのかもしれません…」
身分の違い…位の差…魂の違い……
(…それは…私と………っ!?)

欲しい…お前の魂が…私が、あの人と会う為に…
必要…頂戴……?あなた…を…

突然、三人の思考に飛び込んできた念の叫び声。
「これ…は……」
「現れたか…」
「シンさまっユダさまっ」
黒兎のアリエスが、二人の衣の裾を引き、指差した先には…
「ラシエルさま…」
アリエスの瞳から涙が零れる…虚空に浮かぶアリエスが守護する人間ラシエルの姿があった。しかし、血の気の失せた表情は死人のそれだった。

やっと、来たわね…あなた、この男を探していたのでしょう?
だけど…諦めなさい…もう、この男は、還らないわ…
あ…と…少し…なのよ……
ねぇ、あなたは… 私の、愛しい人…?
あぁ……違うわね…あの人は、そんな髪の色はしていないっ

独り言のようにも聞こえる言の葉がふいに語気を強める。辺りの空気が霧と共に集まり、ぼんやりと人の姿を模していった。それとは逆にラシエルの姿は薄れていった。
「ラシエルさまっ」
アリエスの悲痛な声が、響く。後を追うとするのをユダに止められる。
「つらいだろうが、あと少し、待て」
「………」
流れる涙に言葉を発せられず、ただ、黙って頷く。その後方で盾を構えるシン。
「念が実体化しようとしています。ユダ、どうしますか?」
「そうだな…」
余裕さえ感じさせる後姿にシンは身を任せた。このままなら、大丈夫だと。

…ほぉ…お前達の魂は…美しいな…
これならば……1000の魂と引き換えても…余りある、か……

「1000の魂…?」 思わず、繰り返し問うシン。

…人間の魂を1000、集めよと…ああっ、あの人が還ると……

「魂と引き換えに…?誰が、お前にそんな約束をした?」

約束…?ああ、したさ、約束を……輝く魂の持ち主と、な…

「輝く、魂……それ、は……」
『光り輝く魂』その表現を持つ者、それは二人が知る者の中では、ただ一人…
「……ゼウス、か…」
「…神が…?な、何故っ」
揺れる念が告げる言葉に驚愕の事実を知る二人。だとしたら今の混沌を作り出したのはゼウス自身だということになる。
『全天界の天使に告ぐ。下界の混沌を正すべく、そなた達を降臨させる。速やかな解決を望む』
そう、広場で謳ったのは、ゼウス、ではなかったか…
「私、は…あの言葉を信じ…この下界で…アリエスと…」
思考が定まらず、言葉が意味を成さないシン。ユダは下唇を強く噛んだまま、何も語らない。
「…私の危惧と…そう、思いたかったのだ…ゼウスよ…あなたが、すべての…元凶だと…思いたくは…なかったのだ……」
吐き出すような言葉をユダは天に投げつけた。傍らには、放心したアリエスと膝をついたままのシン……
刹那、
金色の光が一条、差込、陽炎のような女の念を刺し貫いた。同時に断末魔の声が挙がる。哀れな女は、ゼウスの駒の一つだけでしかなかったかのように、ただ、消えていった…
「…哀しい事を言うでない、ユダよ」
光の球体が、地に降りた。
「…ゼウス……」
地を這うような声音で名を呼ぶユダ。
「ならば、お前も私の気持ちがわかるだろう。このままでは、地の穢れが天にまで及ぶかも知れぬ。人間どもは淘汰されるべきなのだ。ユダよ、神としての当然の責務なのだ」
「…人間…だけか?ゼウスっ、お前の考えている事はそれだけか」
「否事を言うな、他に何がある?」
「…俺が…知らぬと思っているのか…任務に失敗した天使さえも、天界から消えているという事実を…」
「ほぉ……」
細くゼウスの左目が細められる。二人の間に交わされる会話を黙して聞くことしか出来ないシン。
「…何を、知っていると…?」
「お前が淘汰したいのは、人間だけではなかろう、我々天界に存在する天使すべてをも…淘汰したい、そう、考えているのだろう?」
途端にゼウスの甲高い笑い声がした。
「さすが、私の見込んだ天使だ。お前なら私の左腕にふさわしい。さぁ、そこの守護天使とシンを淘汰し、共に天界へ戻ろうぞ」
「……………っ」
シンはゼウスの口から発せられた言葉が信じられなかった。今、ゼウスなんと言った?『淘汰』しろと。
「シンを淘汰しろ」と。
「ゼウスさまっ。なんと惨い事をおっしゃるのですかっ。私は…私は…ずっとあなたを…敬愛してやまなかった…あなたの為なら…なんでも…出来た…というのに……」
嗚咽を繰り返すシンの傍らに寄り添いその細い肩を抱く。
「…シン…そう、何も言うな…今の言葉だけが、真実だ…もう、神は、何処にも…いないのだ…」
ゆらりと紅いオーラを纏ったユダが、その右手に光を集める。主であるゼウスに牙を剥く為に……
「ゼウス―――っ」

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終章

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輝く光が、森を染める。金色の光と真紅の光。しかし、力の差は、歴然としていた。
「……ユダっ」
気を失ったアリエスを腕にシンは、声が枯れるほどその名を呼び続けた。
『すべてを淘汰せよ』
それがゼウスの本意。あの天界での神々しくも気高い姿は、偽りだったのだ。ただ、私利私欲の為にこの世界を狂わせていた。時折見せたユダの憂顔の原因は、このことだったのかと…思考が止まらない…止まらぬまま、身体の自由が奪われていくのを感じていた。信じていたすべて。敬愛していた、心のすべて。それが、今、眼前で戦っている…すでにゼウスの双眸には狂気さえ見て取れた…天界は…いや、この世界はもう、終末を迎えようとしているのか…哀しみというのには、あまりにも重く苦しい事実だった…
「…もう…いや、です……」
激しく鬩ぎあう魂が、血を流し続けている。しかし、今のシンにそれを止める術が無かった。
「どうした、ユダ…もう、終わりか…?」
「くぅ…っ……」
ユダの皮膚は裂け、血が滴り落ちている…癒しの術も追いつかない…それほどにゼウスの攻撃は、激しい…何度倒れても立ち向かってくるユダに苛立つゼウス…
「ユダ……私はお前を愛しいと思っておったというのに…このゼウスの愛を拒むというのだな…なのば…お前も『淘汰』されるがいい……っ」
刹那、ゼウスの右手が光る、永遠の命を有する天使の唯一の弱点、心臓を目掛けて光が走る……
「……………………っ」
その瞬間、攻撃をかわそうとしたユダの身体が大きく揺れた…果たしてユダの心臓は、ゼウスの放った光に射抜かれてしまう…大きく開いた胸の穴からすべてが、流れ落ちていった…
「ユダっ」
自身の髪よりも紅い血の海の中に横たわっているのは、麒麟のユダ…無我夢中で駆け寄ったその眼下の広がる情景を夢の中の出来事のように遠く、感じながらそっと、抱き上げる。愛していると交わした睦言がまだ、シンの耳に残っている…触れた唇は、まだ、温もりを持ち、閉じた瞼は、シンの呼びかけに答えるかのように…すべてが夢の中のようで…だが、それは現実で…
「…ユダ……ユダ……」
夢では無いのだ、幾度名を読んでも、その答えは無い。
「ユダ――――――っ」
シンの悲痛な叫び声が森に木霊する。瞬間、シンの身体が揺らめき、時空が歪み始める。シンは知らずに自身の「時を操る能力」を使ったのだ。ユダが生きている時間まで、時を戻す為に…
この事をゼウスが見逃す筈も無く…シンの左胸が光に貫かれる…それは、ユダが戻った数刻後…運命が変わる瞬間をシンは全霊で成し遂げた。
だが、シンの顔は色を失い、その場へと崩れ落ちる…時を戻ったユダが目覚め、傍らのシンをみやる。
「………シン?」
(ゼウスと対峙していたはずなのにどうしてシンが倒れて…?)
が、過去の自身が流した血と現在のシンが流した血が、すべてを語っていた。
「お前は…時を…戻したの…か?」
抱きあけ、そっと名を呼ぶ…
「シン……」
影の降りた瞼が、かすかに揺れ、瞳が色を表す…
「よかっ…た……ユダ……」
「シン…」
精神を極限まで使った為、シンの身体は極度に衰弱していた。そして左胸の致命傷…
「ゼウスっ…貴様は…自分の命から作り出した…我らを……」
「だからだ…私が創ったモノだ。私がその最後を決めて何が悪いというのだ?」
すでにそこに「愛」は無かった。憎しみだけが、ユダを…支配していた。怒りが力を増幅する。想いが、力となる…
「ゼウス――っ」
悲痛なほどの叫び声が、地上を這う…ユダが放った光は、ゼウスの左肩を打ち砕いた…
「…むうっ……ユ…ダ…このままでは……すまさんっ」
まるで、ただの人間のような捨て台詞を残し、ゼウスの姿が掻き消えた…
「…あれが…ゼウスか…俺は……俺は……」
ユダの瞳から涙が、零れ落ちた…それは止まる術を知らないようだった…しかし、それ以上嘆いている時間は無かった。シンの呼吸が希薄になっていく。
「このままでは…」
自身の唇をシンの傷口に当てる…必死に力を送り込もうとする…しかし…
「どうして…血がとまらないっ?」
ユダは全身の力が抜けていくのを感じていた。ゼウスに与えられた癒し能力…天使としての能力…それが指先から、吐き出す息から失われていくのだ。
「おのれ…っ…ゼウスめっ……俺の力を封印したなっ」
ユダは天に向かって叫んだ。あれほどの傷を負ってもゼウスの力は衰えてはいなかったのだ。
「………………っ」
灰色の雲が裂け、光の羽根が落ちてくる。その羽根が告げる。

『…ユダ……それほどまでに世に逆らうのならば…お前に生きながらの地獄を味わわせてやろう。お前の大事なものをひとつずつ、奪うとしよう…お前が、この私に従う気になるまでな…』

甲高いゼウスの笑い声が森に木霊した。すべてを諦めよと、神が宣告したのだった…
「…ユ…ダ…」
細い声がした…
「シンっ」
絹のごとき緑青の髪が、血に濡れ、乱れている…吐息は熱く、死の匂いがする…
「…待っていろ、今、傷を癒して…」
「…ユダ……」
咎めるような口調が、すべてを知っていると告げていた。このままあと数刻で別れが来る、という事を…
「だめだ…シン……諦めるな…そんな…瞳をしないで…くれ……」
体温を失おうとしていく身体を温めるように掻き抱く…
(…術が見つからない…俺は…失ってしまうのか…お前を……っ)
「…ユダ様、諦めないでくださいっ」
そこには、気づいたアリエスが立っていた。
「早く、こちらへっ」
シンを助ける術があるというのか…アリエスの必死な様子にようやくユダは立ち上がった。

黒兎のアリエスは、ユダを惑いの森に連れた。ここは、調査の途中で見つけた魔の森。人間には決して見えない森だが、地上と地獄の狭間に存在する。そこには時間は無い。したがってシンの時間も進む事はない。
「ここに…シンを…」
「はい。シン様がおっしゃっていました。地上と地獄の狭間でどちらにも属せ無い魂が存在する場所。時の無い場所で永遠に迷う森だと…」
そして、シンの肉体をこの氷室に封じようというのだ。
「しかし、今私にはなんの力も無い…」
悔しげに唇を噛むユダ。
「大丈夫です。古来より人間達が行ってきた呪術」
アリエスから手渡された文書には、様々な呪術が記されていた。
「これでシンの時を止める…?」
「はい…」
真っ直ぐなアリエスの視線が、決心を促していた。
「そうだ…死なせるわけにはいかないのだ…シン…っ」
横たわるシンの傍らに跪き、そこここの濡れた血の跡を拭う。すでに意識をなくしているその身体の傷を自身の服を切り裂き、覆い隠すユダ。
「…待っていろ…すぐに迎えに来る…」
文書の一文を読み進める。呪具として使った指輪…それは、かつてユダがシンに与えた揃いの銀の指輪。その指輪にシンのすべてを写し取り、肉体を氷の中に封じた。青白い氷の中のシンは、ただ、眠っているかのように、微かな微笑みを浮かべていた。
「シン……シン……必ず……」


再び、ユダは、ゼウスと対峙することを決意する。己が権力を誇示するばかりの神、しかし、その能力も全能なのだ。それゆえにシンの命を救えるのもゼウスただ一人なのだ。
「…シン……お前を失うくらいなら…いつでもこの身などゼウスにくれてやる……」
氷越しのシンの唇に触れ、誓うユダだった……


想いが、
封じられ、その温度を失う…
失った温度は…
無くした、心が、
戻りたいと、 叫んでも……
…叶わない、
………もう、叶わない、想い………


そして、世界が、堕ちていく………………



End