変えられるモノ



一枚壁を隔てた向こう側の人の体温…
痛いほど、感じてしまう……息遣い…
心の真実を黒い闇の中に塗りこめる時間…吐き出せぬ息を固めて、
不燃物として、捨てる、時間…
…乾いた心が、ひび割れてゆく、鈍い音が…
…響く……………時間………………

「ん?顔色、悪りいんじゃね?」
半覚醒のまま、廊下に出た八戒を悟浄は、引き止め、額に手を置く。

ビクッ!

八戒の身体が、大袈裟なくらい、震えた…
「…お、おい……どうしたんだよ……?」
「す、すみません…なんか、寝ぼけていたみたいです……」
差し出した手を無様に引っ込め、悟浄が、問う。
「何か……あったのか……?…三……」
「悟浄!!」
強い口調で悟浄を制する。その瞳に浮かんだ一瞬の感情……
「とまどい」「恐怖」……入り混じる、予測不能の感情……
「……なんでも無いんです……」

……それが、なんでもないって……顔かよ……

背を向けた八戒を今は、見送ることしか出来ない自分に唇を噛む、悟浄だった……

西への旅は、しごく、穏やかだった。
運動不足になるだの、刺激、無さすぎ、とか、理不尽な愚痴は、この時の八戒には、対処、出来なかった。
そんな八戒の様子を助手席の三蔵は、ただ、口を閉じ、前方を見据えることしか、出来なかった。

いつもと変わらぬ時間のはずだったのに…

それが、4人の上に平等の訪れる筈だったのに…

…壊してしまったのは、僕…

甘えてしまったのは、…僕……

それは、突然、やってきた…………

12日前、玉面公主の刺客と戦闘中…こともあろうか、昇霊銃を放つ三蔵の姿から目を放せなくなってしまったのだ……狂いのない照準で妖怪達を消し去っていく、三蔵に……それが、一瞬だったのか…戦闘が終わるまでの時間……だったのか、八戒には、わからなかった……が、
「何、ぼんやりしてやがるっ!!」
自身の真後ろで聞いた銃声と怒声が、八戒を引き戻した。地面には、血に染まった妖怪が倒れていた。
そして、背中に感じた、熱い痛み……流れ落ちたのは、……真紅の血……
「らしくねぇな……」
そう、舌打ちされたというのに、八戒は、心が震えるのを感じていた……
自嘲めいた微笑みを浮かべて、平然と、答えていた自分がいた。
「すいません……あなたの腕前に見惚れていました」
「…てめぇ……何うざってぇこと、言ってやがる!?」
硝子の砕け散る音が、八戒の耳には、はっきりと聞こえていた………

「いやぁ〜〜この悪路、なんとかならないもんですかねぇ?」
「ったく……本当にこの道であってんだろーなっ!?八戒!!…っ!?いでっ!!」
後部座席で、いや、というほど、揺らされていた悟空が、文句を言った途端のこと。
「だから、しゃべったら舌を噛むって言ったでしょう?」
「このバカ猿の記憶は、3分しかもたねぇんだよ!」
「んだとぉ!?このエロ河童っ!…っ!痛っ!!……また、噛んだ……」
「おおっと!訂正!1分が限界でしたぁ……っ!?……ででっ!」
言葉を続けようとして、悟浄も舌を噛んでしまう。
「……おめぇらは、同レベルだ……それを忘れるな……」
「ひどい……三ちゃんったらvv」
「誰が、三ちゃんだっ!!!」
バシィっ!!三蔵のハリセン、クリーンヒット!!
「…………」

「どうした?八戒………背中、痛むのか?」
「え?」
「いや……なんでもないなら……いい……」
ものの5分も経たぬうちにまた、同じような痴話喧嘩を始めた猿と河童を乗せ、ジープは、まったく、胸くそ悪くなるような悪路を進み続けた。

「……ふっ………くぅ…………」
野宿の決まった運転席の住人が、苦しげな息を吐き出し、その意識を目覚めさせた。
「……………………!?」
身じろいだ振動にシートが、悲鳴を上げる………
「………はぁ……」
首筋を伝っていた汗を拭い、隣りで眠っている人を――――見た
少し、後ろに仰け反った首筋が、規則正しい脈を打っているのが見えた。
その中には、真っ赤な血が、生きている証を誇示しようと、流れ続けている。
熱い血が……ドクン、ドクンと………
熱い眩暈が、八戒を襲う。吸い寄せられるように、その首筋に唇を這わせ、感じる…熱い血のたぎり……
揺り起こし、その金色を汚したい………負の感情…………
歯を立て、噛み切ってしまいたい……邪な感情……
「……んっ…………」
三蔵の唇が何か形作っている………
……その唇の形作るモノが……僕の名だったら…………! …三蔵…!!

「…うっ………あぁ………ん?…八戒…?」
名を呼ばれた気がし、目覚めた三蔵の隣りに八戒の姿は無かった。
「……あいつ………またか………」
気づいていたのは、三蔵……

獣道、と呼んでいいほどの下草が生い茂る道が、少しだけ、開けた紫の華が咲く場所に、その華を抱くように、横たわっている八戒……
息遣いの音さえしない、静寂な夜。いったい、三蔵の目の前に現れたのは、なんなのか……
下弦の月が、照らす寝姿は、まるで、死人のように見えて、三蔵は、存在を確かめることが出来ずにいた……その理由を確かめるのが、怖い、ように。

「おい……そんな場所で寝る趣味、あったのか……」
ようやく、かけた言葉は、乾いた喉が、うまく言葉を発してくれない。それでも、八戒の耳には、届いたのだろう。その身をゆっくりと、起こし、三蔵を見やる。視線は、三蔵を見てはいない。なのに、その場を動くことも出来ない、蜘蛛の糸に絡まる…虫のように……
「…傷が……痛くて、眠れないんです…」
「……傷…?」
「そう、傷です……」
ゆらりと立ち上がった姿は、亡者のそれで……三蔵の背中に冷たいモノが走るほどに…
「八戒……」
「欲しいものが……あります……三蔵、あなたにお願いが…あるんです……」
少しずつ縮まる二人の距離に踏みつけられた草の悲鳴が、満たされていった……
夜風だけが、二人の間に存在する。 今、何もかもが、始まろうとしている、闇の刻…
「…てめぇは、何、とち狂ってやがる……?」
三蔵の指が、自らの首筋を這う…
「…気づいて……?」
一瞬、八戒の表情に浮かんだのは、「諦め」 が、それは、一瞬…ほんの一瞬……
「じゃあ…話が、早い、ですね…? 僕の、欲しい、モノ、下さい、三蔵、あ・な・た・を……」
コマ送りの映像が、三蔵の視界を犯す。 伸びてくる手を払う、腕に絡みつく、熱線…… 懐に入れた手をあっさり、捕えられ、紫の花弁を散らす、 金糸が、月光の嫉妬を浴びている……
「…何が……してぇん…だ……」
初めて感じた「恐怖」に三蔵の喉が、酸素を求めて、足掻き始める… いともたやすく、組み伏せられた…悔しさが、溢れる……
「…下さい……あなたを……僕……に……」
八戒の胸を押し続けていた手を投げ出し、瞳を閉じる…
「好きにしろ……」
――隙、予測しなかった、三蔵の「諦め」 それが、「隙」 三蔵の膝が、八戒の鳩尾に入ったのと、八戒の唇が、三蔵に触れたのと、 どちらが、「先」だったのか……
半身を起こし、口元を拭う三蔵… 目の前の「知人」を見下ろし、吐き捨てる…
「…忘れろ……」

…そう、出来たら…でも、気づいて、しまったんです……

「……どうしたんだ?あの二人……」
「…今朝からも、一っ言も喋ってねぇぜ……」
「「……………………」」
明ける事が無い、そんな長い夜が、互いの頭上から、去り、 朝は、いやおう無く、やって来る。
『…忘れろ……』
そう、八戒に言い残し、踵を返した、夜…… 放っておけば、多分、いつまでも土に身体を預けたままだろう、 八戒を深い溜息と一緒に、連れ帰ったのは…理解不能の感情。

『…下さい……あなたを……僕……に……』

『すいません……あなたの腕前に見惚れていました』

……俺に…どうしろ、と…?


辿り着いたのは、長安から、数えて、18箇所目の街。 天竺に近づくほど、次第に荒廃が進む街には、
揃って、生気が、感じられない。 痩せこけた子供の姿ばかりが、目に付く。
女主人の宿屋の門を叩く。 今夜の宿を取る為に…
「宿帳」に記載する名前を八戒は、長いこと、記せずにいた。
取れたのは、2人部屋の離れが、ふたつ……
「……お前の…好きにしろ……」
「……………!?」
唐突な、答え。 それきり、八戒の側を離れる三蔵。
「で?俺らは、何処に寝るの?」
悟空と同室と知って、不平を漏らす、悟浄を八戒は、モノクルの下から、懇願した。
「わぁーったよ……今回限り、だぜ?」
「…ありがとう……悟浄……」
表面上、いつもの八戒。 悟空の世話を焼く姿も数日前に戻ったかのように…… 眼前で、新聞にだけ、
視線を走らせている人を盗み見、しながら、 ただ、時間だけが、八戒の上を通り過ぎていった。
「聞かせて……もらおうか…」
窓枠に腰掛け、煙草をくゆらせていた三蔵が、八戒を視界に入れ、 毒づいた。 窓の外に、再び、夜が訪れていた。
「…洗いざらい、吐け」
「せっかちな人、ですね……そんな風に言われても、ねぇ?」
浮かべる微笑みは、いつものソレで。 本当の自分を何処かに置いてきた表情。
「……八戒……」
静かに流れる声は、八戒の心を濡らすには、十分で……
「…昔っから、あなたにだけは、隠し事、出来ませんでしたからね…」
「でも、言いたいことは、ひとつだけです」
ベッドから、つい、と立ち上がり、歩を三蔵に向けて、踏み出す。
無様にも、おのれの身体を引いてしまう、三蔵。
「…あなたが、欲・し・い……それだけ、なんです……」
「…で?それに、俺が答える、と、でも………?」
「間」
どれくらいの「間」だったのか
「いえ……思っていません。ただ、あなたが、言え、と言ったので」
二人の距離が、伸ばした腕の長さ分。 それ以上、犯せない領域。 弾かれる、邪まな感情……
…たった、ひとつの金色に……
「…どうしてだ……?」
問う、唇に、答えを与えず、自身の温もりを与える…
「…気づいてしまったから………それだけ、です……」
「…俺に、どうしろ、と……?」
紫暗の瞳が、曇る様に八戒は、薄汚れた天井を見上げるしか、無かった。
「そんな顔、させたくはないのに………」
電球の明かりを背に、八戒の見えない、表情…
……泣いて……?
「もう、寝ましょうか?」
声音の変化、一気に身体中の力が抜けていくのが、わかる、三蔵… そして、そんな感情を自覚した自分に、唇をきつく噛む……
「…八戒……」
すでに、ベッドへ潜り込もうとしている八戒をもう一度、呼ぶ……
「……おやすみなさい…」
「…………………」

  ……心を切り裂いて、あなたに見せ付けることが、出来たなら……
  今は、あなたしか、いない、心のすべてを……
  花喃…これは、なんなんでしょうね…?
  僕は、いつも、届かないモノばかりを追い求めてしまう……
  …あなたを失った時、僕は、死んだ、筈。
  なのに、意地汚く、生、に、しがみ付く自分がいる……!
  ただ、あの人のそばに、居たい、それだけで……
  ……花喃……花喃……僕は、生きます……
  今度こそ、自分の為に…… いつか、あの世で、再会したなら…あなたに謝罪します。
  あなたが、許してくれるまで、何度も……
  だから、今、は、生きさせてください……
  …あの金色に輝く、光、と、一緒に……

生きて…ただ、あなたと共に生きる、それだけが、 僕の望み、だった筈…
何時の間に、僕の心を強欲が支配し始めたのか… どんなに手を伸ばしても 届かない 至高の唯一の存在に……
…壊れてしまえと、望むのは、
「…2度目、ですね………」
思わず付いて出た、言葉尻を拾って、悟浄が、からかう。
「なんだよ、独り言、聞かれてんぜ?」
ただ、苦笑いを返すだけ、 隣りの三蔵は、その紫暗を閉じたまま……

僕を視界にさえ、入れてくれない…のですか?

壊れていく時間… 崩れていく想い……

出来ることならに、すべてを忘却の彼方に……っ!!

この心を僕の心だけを…!!
……捨ててしまえばいい…… そう、簡単な……事……

「八戒……」
燐とした声に呼ばれ、心を引き戻す。
「…あっ……ハイ……」
投げた視線の先の三蔵。 ふいと、擦れ違う視線……
「…次の街へは、どのくらいだ……?」
それは、いつもの会話。 そう、戻そうとしている時間。
「…待ってください……確認しますね?」
カサカサ、八戒の膝の上で、広げた地図が、悲鳴をあげる。

まだ―――こんなに、遠い―――――

「野宿、決定っ!てか?」  
ジープの後部座席から、地図を覗き込んだ悟浄が、決定を下す。
「そう……なるみたいです」
相変わらずの荒野 走る4人の上に、再び、夜が、訪れた。
狭い車内にそれぞれに居場所を見つけ、1枚の毛布に包まり、眠りを貪る…… 雲ひとつない夜空、満天の星を見上げ、瞳を閉じることが、できない、八戒。 軋むシートが、身動きさえ、封じている。
微かに聞こえる、寝息を左耳に聞きながら……
「拷問……ですかね?これって……」
そして、鍵をかけた……心。 生きる為に、この愛しい人と、共に生きる為に………

「腹減ったぁ〜〜っ!!」
「クスッ……おはようございます。悟空、朝ご飯の用意、出来てますよ?」
「やりぃ!いっただきまーすっ!」
焚き火を起こし、皆の為に軽い朝食を作る八戒。 手際よく、野菜を切り刻む……
「よっ、早いな?八戒……」
2番手に起床した悟浄は、まだ、眠たげに紅い髪を掻き揚げながら、八戒の肩に手を置く。
振り返る、八戒………そして……
「………………!?ど、どうしたんだよ!?八戒…?」
「え?何がです?」
八戒の顔に浮かんでいるのは、「笑顔」 そう、あの人懐っこい「笑顔」 なのに……… それが、今にも壊れそうな硝子の仮面だということを 気づいてしまった……その瞳に以前の光は、無い……と…
「八戒!?何があった!?お前のその…顔……」
……それが、何か?……
微笑みの下で、そう、言われた気がした、モノ言わぬ唇が、
…放っておいて下さい……
拒絶、 その唇を癒すことが、出来るのだろうか……
…どうしろってんだ……!?…八戒……おめぇ… …お前にそんな顔、させやがって………!!
「…悟浄?」
まだ、起きてこないもう一人の元に向けて、足を踏み出した瞬間、呼び止められる。
「……あっ…?」
「朝食、早く、食べてくださいね?冷めちゃったら、おいしくない、ですから……」
……ああ……お前は、それで、いいのか?……それで……
俯いた悟浄の瞳から、流れたのは……涙…… 彼もまた、この危うい関係の上で、立ち尽くすのか…… 崩れる……砂の城のように……

「八戒?」
太陽が、真上から降り注ぐ熱を避ける様に、木陰で休息をとる、三蔵一行。
独り、離れた場所に座っていた八戒に悟浄が声を掛けた。
「なんですか?もう、少し、休んだほうが、いいですよ?この日差しで、 ジープもすっかり、まいっているみたいですし…出発は、もう少し、 日が傾いてからにしようと……」
「八戒!!」
悟浄の怒声に身体中を強張らせて、絶句する、 翡翠の瞳を持つ青年…その笑顔には、血にまみれた過去が、張り付いたように……
「…すみません………」
「…なんで、そこで、お前が、謝んだよ……っ!」
イライラした口調で、唇に咥えていた煙草を地面に投げつける。
「何が……あった……?」
その言葉に、顔を上げた八戒は、悟浄の紅の瞳をモノも言わず、見つめ返した。 そして、見開いた瞳のまま、諦めにも似た、溜息と一緒の――告白。
「…まったく、変な人達です……あなた達は…何もかも、わかっている… そう、言いたそうですね?」「………お前は、俺が、拾った、からな………」
「…悟浄…………」
「言えよ……言っちまうことで、お前が、少しでも…楽になれん……なら……」
「…悟浄……」
「たぶん、本当に…聞いてやるしか、出来ねぇかも……しんねぇけど……」
「悟…浄…………っ!」
「…んだよ……何、泣いて………」
張り詰めた心を揺さぶる悟浄。 その真意を測り損ねた八戒は、心を曝け出す……
「…三蔵を……欲しいと……そう、告げました……」
悟浄の肩が、ソレとわかるほど、跳ね上がった。
「…受け入れては、もらえるとは、思っていません…でも、気づいてしまったんです… …『ほんとう』に………おかしい、ですよね?一緒に旅を始めたのだって、 僕にとって三蔵が必要だったから、そして、三蔵にも僕が、必要で…だから、 4人で旅を始めて……なのに、どうして、こんな事になったのか… …わからない………」
小刻みに身体を震わせながら、 独白する八戒の細い身体を自分でも意識せずに抱き寄せていた悟浄……
「…わかった……わかったから……んな顔、すんな… …見てるほうが……つれぇ…………」
「……悟浄……………?」
そして、悟浄もまた、己のしている事の意味を悟った………

……俺は、どうして、八戒をこの腕に抱いている……?
俺は、ただ……この二人を見ていらんなくて………!!

腕の中の身体が、強張るのを……感じた……悟浄……
「わ、悪りぃ!つ、ついな……お前が、女だったら、このまま、押し倒して… …メチャクチャ、落とすチャンス、だから、な?」
「…え、ええ………」
曖昧な返事の八戒をやっと、その腕から、離し、 見下ろした視線は、彷徨う陽炎のようで……
「悟浄〜〜っ!八戒〜〜っ!!何処だぁ〜〜??」
悟空の、五月蝿いくらいの声が、二人を探していた。
「呼んで……ますね………」
「ああ………」
「と、とにかく、休んだほうがいいのは、お前のほうだ。 次の街までは、俺が、運転する」
「……悟浄!?」
「わかったな?『ダメだ』なんて、言わせねぇぜ?」

「あれぇ〜〜?悟浄、なんで、運転席になんか、座ってんの?」  
悟空の無邪気な言葉が、助手席の三蔵を刺し貫いた。
「たまには、いーんでない?なっ?三蔵様?」
「……フン…どうでもいい………」
「あらん♪つれない、お言葉っ♪♪さぁ〜〜っ、らんでぶ〜〜と、行きますかっ!」
「…バカ河童………」
「天竺、目指してGo〜〜っ!!」
退屈な時間を過ごしていた、悟空の陽気な声が、ジープの上に、響いていた……

……八戒……お前………?……
俺は、何を……思ってる……………?

「ほらほら!零れてますよ!悟空!!」
三日ぶりの宿での夜を過ごした三蔵一行は、遅めの朝食を取っていた。 しごくいつもどおりの風景が、そこには、あった。 卓の上の食べ物を次から次へと、空にしていく、悟空。 好きあらば、悟空をからかってやろうと、機会を狙っている、悟浄。 濃い目のコーヒーを口へ運んでいる、三蔵… そして……触れれば、切れてしまいそうな糸の上にいる、八戒。
気づかなければ、それは、いつもの、情景……
「…飯が、済んだら出発するぞ」 読み終わった新聞をたたみ、眼鏡をはずす。 そんな流れるような仕草を自分でも気づかないうちに 片眼で追っていた、八戒…
そして、そんな八戒を見つめる、紅い二つの瞳……

……八戒……お前、決めたのか…?…たった、独りで……


風―――――― ジープの上を通り過ぎる風は、春の匂いを運んでくる。
花びら――― 薄桃色の花びらが、三蔵の膝の上に、一片、舞い落ちる……

「……ん?」
「どうしました?三蔵?」
八戒の呼びかけに無様にも身体中で反応してしまう、三蔵…
「…あ……いや、花びらが…な……」
その花弁を摘み上げ、八戒の眼前に晒す。
「ああ、桜、ですね?何処から飛んできたのでしょう?」
辺りを見渡す八戒。
「なになに?なんの話??」
後部座席で、退屈を持て余していた悟空は、早速とばかりに、 二人の会話に入り込んできた。
「いえね、桜の花びらが何処からが、飛んできたんです。 この辺りに咲いているのかなぁ、
って……」
「よっしゃ!俺が探してやる!!」
人並みはずれた視力の持ち主は、程なく、そのありか探し出した。
「八戒っ!あそこっ!!」
悟空の指先が指し示す場所は、微かな薄桃色の帯が、連なっていた。
「……三蔵………」
皆まで言わず、三蔵に同意を求める八戒。
「……フン…いちいち、俺に聞くな……」
「…はい!」
ジープは、進路を南へと、変えた………

「うっわ〜〜っ!!すんげーっ!俺、こんなの見たこと無いっ!」
「…だな……見渡す限り、桜、だ……」
宿を出発してから、口数の少なかった悟浄が、空を覆いつくす桜に感嘆の声を上げた。
三蔵一行が、辿り着いたのは、まさに『桃源郷』 噎せ返るほどの花香に、八戒は、眩暈を起こしそうだった。
「…綺麗……ですね……」
「……ああ」
暫くの間、四人は、声も出さず、その桜色に酔いしれた…
「そうだ!さっきの街で仕入れたお酒で、酒盛り、といきますか?」
唐突な八戒の提案に、悟浄は、一も二も無く同意した。
……飲んで、忘れられんなら………な?…八戒……

…さらさら 風が あなたを 運んでいく 僕の隣りから…
手を伸ばしても 届かない 遠い場所に
…さらさら 風が あの人を……!!
…桜よ  この僕の想いをその腕の中に 埋めて欲しい 誰の腕にも 届かない ように……
…誰にも……見つからないように……
そして 僕は、この瞳を 閉じよう ……永遠に………

「…酔ったのか?」
「えっ……?」
いつの間にか、桜の木の下には、三蔵と八戒の二人だけになっていた。
「あれ?他の二人は?」
三蔵が顎で示す場所には、すでに、酔いつぶれている二人の姿。
「…あららら………」
そんな二人を瞳を細めて見つめる八戒に三蔵が言葉を続ける。
「…何を考えていたんだ…?」
「………………何がです…?」
「…何が…って……それは、俺が聞いている事だ……」
「あれ?もしかして、心配してくれてるんですか? ……僕が…あの夜から、何も…言わない、
から……」
「…………………!?……まぁ……な……」
クスっ……
八戒が、手にした杯の酒を飲み干して、哂った。
「…僕の想いなんて、十中八九、あなたの迷惑にしかならない、 そう、想っていたんですけどね……僕の計算違い、だったんですかね?」
酔いが、八戒を饒舌にしていた。

…決めたのに……決めた、筈、なのに……僕は、また……
「………八戒…」
少し、声を荒げる…三蔵……
「……冗談です……すいません………」
「…謝るな……」
「……すいません……って、あれ?……クスクス…」
そう言って、笑いの止まらなくなった、八戒。
「…クック……やっぱり、酔ったんでしょうかね… …僕……酒に……この桜に…それとも……」 ゆっくり、視線を合わせられ、三蔵は、動けなくなるのを感じていた。 ゆっくり、八戒の翡翠の瞳が、近づく、背を桜の幹に押し留められ、 薄く開いた唇の行方を見守るしか無い、三蔵…
やめろ、
そう、心の奥からの警告を八戒は、受け入れる事が、出来なかった。 薄桃色の視界が、八戒を酔わせていたから……

……どれくらいの、時間。
…気が付けば、八戒の唇に蹂躙されている自分がいた… そう、自覚した三蔵は、無意識に、八戒の胸を押し返そうとしていた。
が、思いがけない力で、両腕を拘束され、されるがまま、になる……
「…っ…戒………!」
切れ切れの息の隙間から、かろうじて、発することが、出来たのは、 自分を組み敷いている、相手の名前。
「……うっ………くっ!!」
どう足掻いても戒めを解く事が、出来ないと悟った三蔵は、身体の力を抜いた……
「……三蔵…?」
理不尽な行為をしていた張本人は、その反応に不可解な表情を浮かべた。
「……何がだ……どうして、お前が、そんな顔をする…?」
紫暗の瞳の見つめられた翡翠の瞳は、 たった今、自分のした、行為に『罪』の色を漂わせ始めた。
「……あっ………ああ…僕は……………す、すみませんでした………」
先刻までの感情の荒々しさは、消えうせ、気弱な青年の様の八戒に、
三蔵は、大きな溜息をついた………

……八戒……お前が………俺には…………

そして、自らが、開いた三蔵の襟元を丁寧に閉じると
「…頭、冷やしてきます……」
それきり、三蔵を振り向かず、傾き始めた太陽に向かって歩いていった…… 全身を桜の花びらで、覆われながら、 三蔵はその背中に向かって、届かない言葉を投げつけていた。
「……ったく……こんな花の中じゃ……俺まで…酔ってしまいそうだ………」

…八戒……壊れてしまうぜ、そのまんまじゃ……

紅い瞳が、二人を、見つめていた……


「なぁ、三蔵、話、あんだけど……………」 部屋に戻ろうとした三蔵。 呼び止めたのは……悟浄 「なんだ…?」
あからさまに不機嫌な瞳で悟浄を振り返る三蔵…… あの桜の木の下で、過ごした夜から、10日が、経っていた。 夜も遅くなってから、チェックインした宿屋の廊下で、 悟浄が、踊り場から、声を掛けたのだ。
「ちょっと、付き合ってよ…三蔵様ぁ♪」
「………………………」
桜の季節が、過ぎていこうとしていた、宿屋の裏手にも桜の老木が、 今が盛りとばかりに、たわわに薄桃色の花弁を散らせていた…
「…とっとと、用件を言え」
先を歩く悟浄の背に冷たい言葉を投げつける。
「…つれないねぇ…三蔵様ったら……こんなに月が、綺麗な晩なんだぜ? 『逢引』と、洒落込こもうぜ…」
「……てめぇとなんて……ごめんだ……」
「……八戒とだったら、いいって……?」
「………………!?」
火を点けようと咥えていた煙草が、三蔵の唇から、離れた……
「あれあれ?動揺、しちゃってる?」
「………何が、言いたい……?」
ようやく、立ち止まった悟浄が、振り向き様、直球勝負……
「……このまんまだと、アイツ、壊れちまうぜ?」
…壊れる……?…誰が……?…八戒…
…アイツの翡翠色の視線が…俺に絡み付いて……
「……三蔵……なんとか、言ったら、どうだ?八戒に、告白、されたんだろ?」
「…なんのことだ……バカ、言ってろ……」
悟浄の紅い視線に心を見透かれそうで、 三蔵は、その紫の視線を、逸らした……らしくない、
仕草で………
「言っとくけど、全部、バレちゃってんだよね…わかりやすすぎ?おたくら……」
「…お前には、関係……無い……」
…チッ……
そう、悟浄の舌打ちが、聞こえた、と思った、
刹那……
悟浄の手が、三蔵の細い顎を捕えていた。
「……悟浄………?何……を…?…………!?」
次の瞬間、三蔵は、己の唇が、 悟浄のソレに塞がれている事に気づいた…… 抗う余裕も無く、口内を犯していく悟浄の舌の動きに、 覚えのある感覚が、湧き上がり、 三蔵は、自分を犯すモノに白い歯を立てた…
「……っ!!」
音を立てて離れた悟浄の唇に血の玉が、盛り上がってくる……
「…まんざら……ウブ…って訳じゃ、なさそうじゃん… 三蔵様よ……やること、やってんじゃん、八戒のヤツ……」
「……てめぇ……っ!……殺すぞっ!」
「…そんなに潤んだ瞳で、凄まれたって、意味、ねぇよ……」
拳で、血を拭い、その色を三蔵の眼前に晒す。
「あんた…俺達の事、どう思ってやがる? …見ろよ…俺は半妖だが、身体を流れるモンはおめぇらと、おんなじ、赤い血なんだ! …なんら、変わり……ねぇんだ……ココんとこ、だってよ… …おんなじ、なんだぜ……?」
そう、一気に言い切り、悟浄は、自分の胸を指差した。
「…あいつのココは、おれらより、もろい…わかってんだろ? あいつの消えない傷を…… …あんたが、どんな結論、出したって、 あいつは、お前を恨んだり、しねぇよ……」
「…………わかっている」
暫く、間があり、 三蔵は、それだけを告げると、宿屋へと取って返した。
――八戒の待つ、部屋へと……

…… あいつが、求めている…モノ……
……だが、俺のヤツに対する気持ちは… …同じ……なのか…?
あいつを…八戒を…繋ぎとめておけるのは…… …俺だけ……ってことか……
…変えられるのか……今、を………

三蔵は、目の前の扉のノブを静かに、回した……
「何処へ行ってたんです?疲れているんですから、早めに休んでくださいね?」
ベッドサイドの明かりだけになっていた部屋には、 たぶん、三蔵を待っていただろう、八戒が、窓枠に腰掛けながら、 微笑んで、話しかけてきた。
「…ああ………」
あの日――――
『頭……冷やしてきます…』
八戒は、一晩、戻らなかった… …まだ、夜明け前、薄靄が、立ち込める桜並木の向こうから、 八戒は、戻った。 そして、それきり、三蔵を求めることは…しなかった… …言葉、視線すら、あの熱さは、消えていた…… その意味をわかりすぎるくらい、理解していたのは、三蔵自身。
『拒絶、されるくらいなら、自分を殺します』
「そういうヤツだよ……お前は………」
「え?なんです?三蔵……」
「…おい、八戒……」
三蔵は、後ろ手に部屋の鍵を掛けた。
「な、なんですか……?」
扉の前から、動こうとしない三蔵をいぶかしみながら、 窓枠から、降りる八戒。
「…お前……今でも…俺が、好きか…?」
「………………!?」
瞬間、薄闇の中の八戒は、泣く、のかと思った… …しかし、はっきりと、頷くのが、三蔵に、見て取れた。
「……俺は…お前を失いたくない… これが、お前と、同じかは…わからないが………」
言い澱む三蔵は、駆け寄った八戒の腕に……抱かれる……
「……そんな……三蔵……僕に…同情…してんですか……?」
「……違う……」
「じゃあ……ボランティア……?」
「…違う…」
「…まさか、シタイ…?」
「……バカか………」
「…ですね……でも………いいんですか…? まだ、今なら……間に合う……今なら、まだ、僕を突き放せるのに………」
「……もう……黙れ……」
三蔵は、八戒に口付けた。 それは、とてもぎこちないものだった…
が、 …八戒には、十分過ぎる、行為、だった。
「…三蔵……愛しています…」
その言葉をいつ、聞いたのか、三蔵の、記憶は、曖昧、だった… 深く合わさった唇から、流れ込む激情に翻弄され続けた時間… 夜着を脱ぎ捨てた八戒の傷跡に三蔵が、触れた途端、 八戒は、その身体を大きく、振るわせた…
「…三蔵………三蔵……さん……」
うわ言のように繰り返される名前に三蔵は、 心地よい、酔いを感じていた…… 合わさった肌の温もりは、三蔵に安心与え、 濡れた唇は、三蔵に初めての感覚をもたらした…
「…うっ…!……あぁ………っっ!!」
八戒の指先が、三蔵の中に熱い感覚を呼び起こす…
声が……噛み締めた唇から…漏れ出す……
「…そんなに、強く、噛まないで… …切れて、しまう……聞かせてください…
…あなたの、声、を………」
「…は、八戒っ!!」
白いシーツの海が、絡み合う、二つの肢体をソノ奥深くに、 連れ去って………行った…

「……三蔵………愛しています………」

…感情、不可解な、感情 俺は、八戒に、何を感じて、この身体を開いたのか…
答えなんて、出ちゃいなかった… ましてや、悟浄に説教、くらったからって、訳でもねぇ…
…ただ、失いたくない、
それは、本当だ。
…八戒の…声は……好きだと……思った……

ただ、それだけだ……

終わり