キミがいなければ…



「…近いうちにごく親しい人との別れがあります」
架月は目の前で開かれた審判のカードを見つめていた。
「どうした、架月?」
「いや…」
「なんだよ、占い信じたのか?」
石田がからかい顔で架月を覗き込む。信じたわけではない。
なのに、裕壱はおかしな胸騒ぎに占い師の言葉を繰り返していた、
その意味に戸惑いながら…

「くぅ〜〜、寒みぃっ」
カレンダーも残り1枚となったある日曜日。
予備校の帰り、渉は外の寒さに身をすくめた。
「もう冬が来たのかよぉ…」
「そんな薄着してっからだよっ」 渉の背後から川村が声を掛ける。
鼻水をすすりながら、声の方を振り向く。
「んだよっ。お前が出てくんのが遅すぎるんだよ」
「…俺のせいかよ」
腹に向かってきた渉の拳をかろうじてかわしながら、大袈裟に首を横に振る。
目前に迫った受験の為、二人揃って予備校通いの日々か続いていた。
渉にとっては、裕壱と一緒に暮らせるかどうかが係った受験だった。
秋も深まり、北の地では、雪の便りも聞こえるようになっていた。
晒した肌に触れる空気も冷たく…
(架月、頑張ってるかな?)
寒さが裕壱の温もりを恋しがらせた。
ふと見た時計は、午後3時を指している。今日は裕壱と約束がある。
渉が無事に大学合格するまではと二人の逢瀬は一週間に一回と決めていた。
その約束はイレギュラーに破られてはいたが…
「今日、約束してんだろ?」
「うん…」
川村に指摘されて渉は頬に熱が昇るのを感じた。
(…ったく…こいつらいつまでもラブラブでやんの…
付き合って1年も経ってんのになんだよ、その反応っ)
川村は裕壱と渉が恋人同士になる経緯を見ていた数少ない人間の一人だ。
自分には今だに決まった恋人が出来ないのに
いつも二人のアリバイ作りなんかに協力する事になっている。
(俺って損な役回り、だよな…)
「…で、まだ、時間あんだろ?マックぐらい付き合えよ」
「んっ」
二人は冬の匂いを含んだ風を受け止めながら、休日の街に歩き出した。
藤井渉、緑陽高校3年、只今灰色の受験生である。
志望校のM大理工学部の合格ラインを超えたと知らされたのは
夏休み後の予備試験の結果だった。
図らずも浅香雅展のお陰であったようだ。 最近の騒動の中心人物、浅香雅展。
裕壱と渉の仲を知っていながら、渉に恋したと言ってのけた男である。
現在、裕壱と浅香の間には、ちょっとしたライバル関係が出来ていた。
そして紆余曲折の末、浅香雅展が主宰する「リノべーション研究会」のメンバーになったのは、
渉の恋人、架月裕壱。裕壱の将来の目標、その途中に浅香がいる。
裕壱の百歩譲った選択だったのだ。現在国立大教養課程の理科一類に在籍。
自称、世紀の男前、だそうだ。
そんな二人が恋人同士になるまでは、偶然が重なった出会いがあった。
でも、渉はその出会いも自分の運命だったんだと信じていた。
(…もう何があったって、大丈夫なんだからなっ。俺達は…)
そう、思って『俺達』と対にした呼称にまた、温度が上がり始めたようだった。
予備校の向かいのファーストフード店で道路に面したカウンターで並んで食べ始めた、渉と川村。
二人は目前に迫っている受験の事など忘れたかのように
他愛もない会話で時間を過ごしていた。
2個目のバーガーに口を付けたところで渉の携帯にメールが入った。
(…架月だ)
「なんだ?連絡入ったのか」
「うん、架月だ」
川村は親友の表情が裕壱の名前を口にしただけで
変化してしまうのを複雑な気持ちで眺めていた。
(ま、もう慣れたけどな…)
「待たせたらまた俺が恨まれる。もう行けよ」
「…うん」
躊躇いながらも渉は、早々に川村と別れを告げ、裕壱との約束の場所に向かった。
親友の後姿を見て見送り、川村はもう一度、溜息をついた。
(…俺は、いつだってお前の味方だからな…)
しかし…数々の騒乱の原因を作る要因のひとつになっているのにが
自分だということにはまったく気づかない川村だった。
今、裕壱は新しい古民家の改装を任されていた。
元来、優秀な頭脳を持っている裕壱である。本気になったなら怖いものは無い。
サークルに参加して間もなく、副責任者にまでなっていた。
(…確か…この辺…)
裕壱に教えてもらった住所を頼りに下町を歩く。
メモを見ながら歩いていたので渉は前方からやってきた自転車の存在に気がつかなかった。
「危ないっ」
言葉を投げつけられて初めて、渉は顔を上げた。
瞬間、誰かの腕が渉の身体を強く引っ張った。
「…架月」
「ばかっ。何処見て歩いてんだっ」
見事に二人尻餅を付き、道端に座り込む羽目になった。
渉にぶつかりそうになった自転車の持ち主は、罵倒する言葉を残してそのまま走り去った。
「痛っ」
立ち上がろうとした渉が、小さく呻いた。
「怪我、したのか?」
「ん…どうだろ…膝、痛い…」
慌ててたくし上げたズボンの下から擦り剥いた膝小僧が現れた。
白くなった皮膚の間から血が滲み出していた。
「こんくらい、平気だって」
「………………」
その時、裕壱の表情が尋常でないことに気づいた。
渉の腰に回った腕から微かな振るえが伝わってきた。
顔色も心なしか青ざめていた。
「…架月…?」
渉の言葉が耳には入らないようだった。バカみたいに血だらけの膝小僧を見つめている。

『…親しい人との別れが…』

その時の裕壱の脳裏に戯れに占ってもらった女性占い師の言葉が蘇っていた。
サークルの飲み会の帰り、駅前広場で路上占いを見つけ、美月が占ってもらうと声を掛けた。
全員で占ってもらうのよっ、と酔った強引さで裕壱も占う羽目になった。
占いなんて信じていない裕壱にとって結果はどうでもいい事だった。
そう、今まで、占いに頼らなければならない人生など送っていなかったからだ。
しかし、思わぬ占い師の言葉に裕壱は、絶句した。
彼女がめくった最後のカードには、裕壱に別離を示していたからだ。
タロットカードは、神聖なのよ、絶対、当たるってっ。
美月達の妙にはしゃぐ様が、裕壱の心に影を残した。
それが今、目の前で怪我をした渉を見て、らしくない動揺と一緒に思い出したのだ。
(…別れ…別れったって、恋人同士の別れ、だけじゃ…ない…)
それは、裕壱から平静さを失わせるには十分の理由だった。
裕壱は、作業で汚れた服を着替えようともせず、無言のまま、渉の手を引いた…
「架月っ、架月っ、痛いってばっ」 大通りに出て、甲高いクラクションの音に初めて我に返ったような裕壱。
傍らには、心配そうに渉が立っていた。
「どうしたんだよ、架月。何か、あったのか?」
「いや…ごめん…ちょっと、慌てた…もう、大丈夫だ…」
(…ちっとも大丈夫じゃないじゃないか…)
繋いだ左手は、まだ、震えていた。
「架月…ごめん、今度から気をつけるから…」
「……………………」
裕壱は黙って渉の肩を引き寄せた。
「酒?飲むのか?」
あれから、現場に戻り、着替えを済ませてから二人は裕壱のマンションに向かった。
途中、スーパーで食材を買っていると、いつもは手を出さない酒を手にした裕壱。
「ん、なんだか急に飲みたくなったんだ…」
週末のお泊りはもう、親公認の恒例になっていたが、
二人だけの時間の時に裕壱がアルコールを口にする事は無かったのだが…
「んっ……」
シャワーを浴びた後、一気に飲み干す裕壱の喉を見ながら、不安を覚える渉。
「なぁ、何があったんだよ。俺の怪我なんか大した事なかったし…ま、注意してなかった俺が悪い…」
皆まで言わせず、不意に裕壱がキスを仕掛けてきた。
「んっ」
いつもは、包み込むように優しい口付けが、
裕壱の心の温度をそのまま移したかのように冷たかった。
「ま、待てって、架月っ」
渉の抵抗など簡単に捻じ込んで、性急に愛撫を与える指…
理由もわからないまま、渉は、駆け上った体温に思考を中断しなくてはならなくなった。
どれくらい時間が経ったのだろう、明かりの落ちた部屋を見渡すと架月が窓辺に立ってる。
声を掛けようとして、妙な音に渉は起き上がるのをやめた。
それは、本当に微かな声… 裕壱が渉の名を呼ぶ声、だが、その声音は涙色をしていた…
「渉……渉っ」

「お兄ちゃんっ、ご飯っ」
「…あ…うん……」
「もう、いったいどうしたって言うのよ。架月さんと喧嘩でもしたの?」
あの夜、確かに聞いた裕壱の泣き声…その意味を図りかねた渉は、
必然と四六時中裕壱の事だけ、になってしまった。
一向に返事をしない兄に業を煮やし、花鈴はブツブツ文句を言いながら部屋を出ていった。
そのことにすら気づかず、渉の思考を占領しているのは、架月裕壱。
(まったく…なんだってあんな…)

『…渉……渉……っ』

渉の脳裏にあの夜の裕壱が甦る。
「あんな架月……」
何かを耐えているようで、悲しげで…
自信に満ちたいつもの裕壱からは想像も出来ないくらい、小さく見えた…
「…あれが俺だったら、いつものパターンなのに…」
原因はまた、自分?だけど、最近は結構うまくやっていると思っていた。
喧嘩らしい喧嘩もしていないし、模擬試験の結果だって、そこそこで…
自分が知らない何かがあっんだ。それはわかる。
だけど、きっと自分が聞いたって答えてくれない。渉は思った。
(…誰かに相談、してみようか…そうだ、浅香さんなら何か知って…)
しかし、その考えは速攻取り消した。
以前、浅香と二人で逢い、裕壱を悩ませてしまった前科があるからだ。
では、誰に聞けばいい?普段の裕壱を知っていて、二人の関係を知っているのは…
「…やっぱり、浅香さんしかいないじゃないか…」
渉は諦めたように溜息を吐いて、
裕壱の為だと自分に言い聞かせて携帯の文字版を打ち始めた。
しかし、二度その判断が渉を悩ませる結果になった。
「架月くんの様子?いや、特に変わった事は無いけど…」
次の日、なるべく裕壱の知らない場所へと呼び出した浅香から聞けた言葉は
あまりにあっさりしたものだった。渉の決意も空しく、
本当に浅香は何も気づいてないようだった。
(…だよな…あの架月が自分の心の中を悟られるような真似をするわけないじゃないか…)
用事が済んだとばかりに暇を告げた渉だったが、
渉に恋している浅香としてはこのチャンスを不意にする筈もなく、
いつの間にか二人は、夕暮れの街を並んで歩くことになっていた。
「渉くん、どうしたんだい?その腕」
「え?ああ、今日体育で…」
制服の袖口から覗いていた包帯を目敏く見つけ、
ふいを付かれた渉は、お姫様よろしく、右手を浅香に預ける格好になった。
そんな気障になポーズが似合ってしまうから始末が悪い。
瞬間、染まった渉の頬にキスを落とし、優雅な微笑みを向ける。
「気をつけなきゃだめだよ。君一人の身体じゃないんだから」
「…俺一人の身体って…ど…いう……?」
(…ヤバイよぉ……こんなとこ、架月に見られでもしたら……)
渉は早々に自分の行動を後悔し始めていた。
「渉っ!?」
放課後、校門を出たところで、呼び止められ振り向いた渉の視界に居たのは…
「…架月」
合格するまでは、逢う回数を減らそう、少しの間だけの我慢だから…
と、言い出したのは裕壱だ。なのに、学校の帰りに待っているなんて…
「……ど……」
「どうしたんだっ!!その腕!」
「え…っ?」
まただ、渉は思った。昨日体育で怪我をした右腕の包帯を見つけ、
大袈裟なくらい裕壱は動揺した様を見せる。
数日前、自転車にぶつかりそうになった時も我を無くすくらい…
「架月……お前、どうしたんだよ…?」
渉の言葉が耳に入らないように震える手で渉の肩を抱く…
ここが往来ということもわかっていないかのように……
「か、架月……まずいって……なぁ、架月っ」
両の手で思い切り、裕壱の胸を押しやる事でやっと、裕壱に自我が戻った。
「…………あ…っ…」
しまったという表情は蒼ざめていた、痛々しいくらいに…
「…悪い……」
「…ん、いいけど……架月、大丈夫か?そこの公園で、休もう」
本当なら、このまま裕壱のマンションへ行って休ませたいが、
一昨日、外泊したばかりだ。それにきっと、このまま一緒にいたら離れられなくなる。
頻度の高い外泊は、家族にいらぬ疑問を持たせてしまう事になる。
渉は、裕壱の背中に腕を回して、先を促した。
しかし、裕壱は理由を話そうとせず、もう、落ち着いたからと、帰って行った。
(架月…もう少し、俺を頼ってくれよ…もっと知りたいよ…架月を……)
暮れつつある空を見上げながら、大きく息を吐いた。
「やぁ、渉くん」
千客万来である。ざわめく心を持て余しながらも帰宅しようとした
渉の目の前に浅香が現れたのである。
「こんにちは、浅香さん」
少しいいかな?その人当たりのいい笑顔で浅香は渉を誘った。
「そこで架月くんを見かけたよ。君に会いに来ていたのかい?」
「はい」
「そう…僕には気づいていないようだったけど…」
「そう、ですか…」
「渉くんもなんだか変だね。あの日、渉くんに架月くんの様子を聞かれて
それとなく彼を観察してみたよ。わずかだけど何かあった素振りだね。
渉くんに言われて改めて気をつけてみたんだけど…僕だったからわかる、変化、かな…」
それはまるで、裕壱の事なら手に取るようにわかる、とでも言いたげに。
なんだか、渉は浅香から「恋」する気持ちに挑戦状を叩き付けられた気がしてきた。
「…確かにいつもの架月くんらしくない行動が多くなっているようだね。
その原因が二人の仲たがいなら僕にとってこれ以上ない好都合なんだけど…」
浅香の視線が熱っぽく渉に注がれる。しかし、それを気に留めるそんな余裕は渉には無かった。
「…で、何かわかったんですか?」
「ん……そうだな…何かに怯えている、そんな感じがしたよ」
……怯えている…?確かに浅香はそう言った。
裕壱が…あの架月裕壱が何に怯えるっていうんだ?
どこまでも俺様で、万能人間の裕壱が… その理由を渉は必死になって考えた。
考えることに夢中になって、いつの間にか、
人気の無い場所に二人、立っていることに気づかなかった。
「…僕なら…渉くんを悩ますような事はしない」
ふいに浅香がキスを仕掛けて来た。
「な、なにするんですかっ!?」
寸前で逃れた渉だったが、後ずさった背中を捉えられてしまう。
「…渉くん、君…忘れてない?…僕が君を好きだってこと…
そんな切なそうな顔をされちゃ…我慢出来なくなる…」
「…………っ!?」
思いがけず強い力で捕まれた左手は、簡単に浅香の胸に引き寄せられ、
間近になった唇が、ジャンパーの襟元から熱い吐息と共に進入して来る。
裕壱とは違う熱さに渉は必死に逃れようとした。しかし、壁際まで追い詰められ、
足の間には浅香の身体が入り込んでしまっている。
「…あ、浅香さんっ!」
「何してるんですか、先輩」
「…………………っ」
夕方の雑踏を背中に感じながら、
三人はそれぞれの想いを内に秘めながら、立ち尽くしていた。
「ごめん…架月」
思い掛けない裕壱の登場に渉は口を利くことが出来なくなってしまっていた。
また、自分は裕壱を困らせるような行動に出てしまったのだと。
何も言わないのがその証拠。 言い訳が、渉の口をついて出る。
「…されて…ないから……」
「……………」
「架月……」
無言の裕壱が悲しかった。また、自分の考えなさで…
「ったく…お前、学習能力ゼロだな……」
「…ごめん……」
「………………っ」
裕壱は、ポンと渉の頭を叩いただけで、とうとう最後まで、何も言わなかった。

「母さん、俺の携帯、知らない…?」
「あ、ごめん!朝起きたらテーブルの上にあったから片付けようとして落としちゃって…」
すまなそうな顔で電源の切れた携帯が差し出される。
「なんだかね電源が入らなくなっちゃって…」
落としたショックで壊れてしまったのか、何度パワーボタンを押しても液晶が明るくなる事は無かった。
しかし、今の渉には裕壱と連絡がつかない事に妙にホッとしていた。
「いいよ、予備校の帰りにでもショップに寄ってみるよ。接触が悪くなっただけかもしれないし」
平謝りの母に笑顔でもう一度大丈夫と答えて、玄関を出た。
少し早い時間だが、家にいると煮詰まってしまうので
冷たい風に当たりながら考えを整理しようと思っていた。
最近の架月の様子。
異常なくらいの心配性。
そりゃ、好きな人に自分の身体の事を心配してもらえるのは嬉しいが、アレはあまりに異常だ。
まるで、渉自身が暗殺者にでも狙われているんじゃないかと、錯覚するほどに…
「いや…もしかして、ほんとうに…」
(…ありえない…そんなテレビドラマみたいな話…)
渉の思考も限界が来ていたのか、そんな非現実的な事まで考え始めてしまっていた。
滅多に無いほど脳を酷使したせいか、今度は、赤信号の横断歩道を渡ってしまった。
急ブレーキを踏む車に罵声を浴びせられ、
せっかく治った膝小僧をまた、擦り剥き、渉は、泣きながら叫んだ。
「架月のバカヤローっ。なんで俺ばっかりこんななんだよっ」
八つ当たりもいいとこだ。しかし、一度流れた涙は止まる事を知らず、人目も気にせず渉は泣き続けた。
「…渉…?」
本屋に行く途中、歩道のざわめきに何事かと様子を見に来た川村だった。
「……どうしたんだよ、お前…」
泣きはらした顔の渉が言い放ったキツイ一言…
「…なんだよ…川村か……」
「…ひでぇ……それ……」
ガックリ首を落とした川村は、その場に座り込んでしまった。
「で…?架月は?」
「…うん……」
渉が車に轢かれそうになったと裕壱に知らせると
授業を抜け出して病院に駆けつけてきた。
渉の膝はかなり酷く擦り剥けていて、無理やり川村が病院に連れて行ったのだ。
裕壱は、言葉少なく、渉の肩を抱いていた。
そんな何も言わない裕壱に渉の不安と苛立ちは深まるだけで…

「…最近、わかんなくなった…架月の事…」
「なんだよ、あんなにラブラブだったじゃねぇか。何やったんだよ、お前…」
「…それがわかったら苦労しない……」
「…まさか…Hん時、誰かと比べるような事を……」
「…ば、ばかな事言うなよっ。俺は架月しか知らないよっ」
「………ふぅん……渉、架月が初Hの相手だったのかぁ…」
隣の席でニヤニヤしながら川村が小突いてくる。
「そんな風に真っ赤になるとこが、いいのかねぇ。架月は。ったく…ご馳走様」
(…川村のヤツ…なんて事言わせんだよっ。だけど…ありがとな……)

一方、裕壱もまた、限界だと思考をストップさせていた。
(今の俺の気持ちをそのまま、渉にぶつけても実際、
自分が何を言いたいのか、わからない。

『別れ』

その言葉だけが、俺を縛っている、
なんてな…だって…悔しいじゃないか…俺だけが、渉を好きみたいで…
俺が思っている以上に俺を好きでいて欲しいなんて…我侭な、だけじゃないか…
それをアイツは……俺に隠し事をするなんて100万年早い。
それに…世の中、親切なヤツが多いんだよ…お前と浅香が逢っていた、なんて教えてくれる親切もんがさ…)
互いの想いが少しだけすれ違って、言葉の中に嘘が混じる。
相手を想うほど、不安に締め付けられる心。
どうやったら自分のすべてを相手に伝えることが出来るのだろうかと、二人同時に考え始めていた。
「…遅かったな…」
「…渉……」
やはり、このもやもやを抱えたままじゃ受験勉強もままならないと思い、
意を決してマンションで裕壱の帰りを待っていた、渉。
「何があったっていうんだよっ」
「別に…」
渉の問い詰めにも言葉を濁すだけで、何も語らない裕壱。
今度は渉がキレる番である。
持参した果実酒をぐいっとあおり、渉は再び、裕壱に詰め寄った。
「何があったか、話してくれって言ってるんだよっ」
ここで裕壱は本来、渉が短気な性格だったのを思い出した。本当に今更、なのだが。
「おい、渉…」
手にした酒瓶を取り上げようと伸ばした手を振り解き、瓶の口から直接酒を煽る。
アルコール度数の高い酒にみるみるうちに渉の目元に朱が散る、目つきも座り始めたようだ。
「架月ぃ〜いいかっ。お互い隠し事は無しって決めただろっ。
俺には、お前の気持ちを聞く権利があるっ」
「弱いくせにそんなに一気に…」
「ああ〜ん?なんだよ…大人ぶりやがって…俺を子ども扱いしやがってぇ〜」
「…渉…ぅ………」
裕壱が、何を言おうと聞き耳持たぬ、といった様の渉。
理由(わけ)を話せ、話さないと、もっと飲むぞ…脅迫のようにみえて、
地雷を踏んでいるような渉の言い分だが、聞かない事には、その場が収まりそうにもない。
それにすっかり酔いの回った渉に何を言っても覚えてないなと、裕壱が重い口を開き始めた。
「…わかったよ…話す、話すから、もう酒、やめろよ」
案外素直に渉は抱きかかえていた酒瓶をテーブルに置いた。
「…本当になんでもないんだ…俺らしくない、だから、お前には言いたくなかった…」
裕壱は戯れに聞いた占い師の「別れ」という言葉に過敏になっていたと告白した。
初めは信じていなかったその言葉も渉がまた、浅香と逢っていたり、
連絡が急に取れなくなったり、オマケに自転車はおろか、自動車にも轢かれそうになる。
百歩譲って、渉が心変わりをして、自分と別れて浅香と付き合うと決めたなら、
無様な事はせず、きっぱり身を引こうと思っていた事。
だが、別れといってもそれが恋人関係の解消だけではない、もしかして、事故で…
そんな事を思ってしまってからは、打ち消そうとしても悪い考えしか思い浮かばす、
八つ当たりみたいな真似をしたと…
「……で、やっぱり思った、どんな形であれ、俺は、渉を失うことなんかに耐えられないっ…」
最後の言葉はもう、渉の耳には届いていなかった。目元を酔いの色に染めて渉は寝入っていた。
「…なんだよ…どうしても聞きたいって言ったのはお前じゃないか…
途中で寝るなんて…失礼なヤツだな…」
渉の額の髪を掻きあげながら、裕壱の瞳の色は何処までも優しくなっていった。
「…お前を…愛してる…」

「転勤?」
「ええ、どうもあっちとこっちの行き来だけじゃ、追いつかななったらしいわ」
それは、兄祥平のニューヨーク転勤の話だった。
建築の仕事に携わっている祥平は海外での仕事も多く、年の半分は家を留守にしていた。
その不便さもあり、今回、ニューヨークのビルをデザインする為、3年という期限で転勤が決まったというのだ。
「…親しい人との別れって…兄貴の事、だったのか…」
裕壱は二度と占いなどするもんかと密かに心に誓った。
一方、肝心の理由を聞けないまま眠り込んでしまった渉は今だに真相を知らずにいた。
すっかり、元に戻った裕壱には満足していたが、
時々、過保護なくらいの視線に腑に落ちない事が、多々あった。
「くそぉ…一生かかっててでも、聞き出してやるっ」

終わり