迷宮の薬指



「あら…?あなたは……」
「…え……?」
渉の引越しの日、衣装ケースを抱えたままの架月裕壱は、ゆっくりと声の主を振り返った。
「架月…っ!!」
ケースの重みが藤井渉にかかり、不満の声を上げる。睨み付けた先の大好きな人は、見知らぬ女(ひと)と、見つめあっていた。
(……な、なんなんだよぉ…この、状況……)
予感、渉の中に生まれた確かな不協和音…
「なぁ、架月…」
「ん?」
さっきの事を問い出そうとして、自分に向けられた笑顔がいつもの架月すぎて、渉は、言 い出せなくなってしまった。
「ううん!な、なんでもない!」
(……あの女(ひと)知り合い、なのかな……でも、なんだか架月、変だった……)

不意に裕壱を呼び止めたのは、同じマンションに住む住人らしい。らしいというのは、渉が知り合いなのか裕壱に聞く前に、社交辞令を交わして別れてしまったからだ。
額に汗を浮かべて、荷解きをしている姿が、真剣すぎて自分のさっきまでの想いは、勘違いでしかないと、思えてくる。
いい加減、裕壱のポーカーフェイスには、慣れた。と、渉は、ひとりごちた。
なんでもないような顔をして、内心かなり動揺しているのが渉には分かりすぎるぐらい分かっていた。
(…架月と付き合うには、スキルアップも必要なんだ)
これから過ごす二人だけの時間の為に裕壱が必死になって荷解きをしている。
そんな裕壱を信じてやらないでどうするんだ、渉は、自分に言い聞かせて再び作業に戻った。

渉が無事大学に合格した春、二人は渋る両親を説得し、晴れて、同居生活が出来る事になった。
これからの自分達の未来に輝く出来事が待っている筈!と、渉は意気揚々、越して来たのだ。しかし、初日からなにやら波乱の匂いがし始めた。
世間的には、シェアしている関係、だと言い切っても現実は「恋人関係」 多くの他人の中に身を置く生活が始まるのだ。
浮かれてばかりはいられない。 渉は、拳を握り締めて誓った。
(俺達の生活、守りきってみせるっ!!)
それは、健気なまでの決意だった。

「……これでだいだい、終わり、かな?」
少ないながらも二人分の荷物を紐解くのには、かなりの時間と労力を要した。
開け放した窓からは、夕方の風が吹き込んでくる。 まだ肌寒い風が汗ばんだ肌に心地よかった。
「シャワーを浴びてから、飯でも食べに行くか?」
そろそろバテ気味だった渉は、一も二も無く裕壱の提案に同意した。
「お前、先に浴びろよ。俺はこのCDラックを組み立てちまうから」
「うん!」
渉は、初めて二人の部屋で過ごすこれからの時間に思いを馳せながら、勢い良くバスルームのドアを開けた。 軽く汗を流してから裕壱と交代する。濡れた髪を乾かしていると、ドアチャイムが鳴った。管理人か?と、疑問も持たずにノブを回した。
「…………………!?」
そこに立っていたのは昼間の女(ひと)。
「……あの……もう一人の人は……?」
歯切れの悪い言葉で、用があるのは、裕壱なのだと、女は言っているようだ。
キリキリと痛む胸を服の上から押さえながら、深く息を吐いて、それでも正直に答える。
「……今、シャワー、浴びてます……」
この女を裕壱に逢わせちゃいけない…!危険信号が渉の頭の中に響き出す。なんとかして、切り抜けなきゃ…… 無言のまま、玄関先で立ちすくむなんて、みっともない真似のまま、渉は言葉を発することが出来なかった。
「…渉?お客さん……?」
…あぁ…と渉は、諦めの溜息をついた。髪の先に雫を溜めた裕壱が、背後から声を掛けてきた。

――うん……お客さんだよ………架月……

渉は目の前で湯気をたてているコーヒーカップを見つめていた。 ペアで買ったウェッジウッド……その片方が、知らない女の前に置かれている。
(……なんでこのカップなんだよ……明日の朝、初めて使うつもりでいたのに……架月のバカ……)
会話のない三角形の中で、渉の思考は破壊的になっていった。
(なんだか、もう、どうでもいい気がしてきた……早く、寝たい……)
疲労が、渉の思考をますます、理解不能な状態にしていく。
「……あの…僕に何か……」
俯く女を前にようやく裕壱が口にした言葉。 突然、 女の瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。
渉は目の前の状況をTVドラマかなにかと思いこもうとしていた。
架月が、自分だけの架月が、髪の長い綺麗な女の人と向かい合って座っている。 そして、ゆっくりと肩を抱き合い…………
(……え……?えっええっ!?……なんだよ!!この状況!!……そうだよ…この女が僕と架月が恋人同士だなんて知る筈は無い。知っているわけは無い!だけど……だからって、なんで、架月はその女の人を抱き締めているんだよぉ〜〜!!)
……正確には、女が勝手に裕壱の胸に飛び込んだのだが、渉の思考は、現在メンテナンスが必要な状態であり、すべての考えがマイナス思考になるように設定されていたのだ。
(………そんな……架月……)
どんなに予測不可能な出来事が起こり、眠れない夜があっても、時間は確実に過ぎ、朝はやって来る。 二人だけで迎えるはずの新居第一日目の朝は、なぜか、三人で迎える羽目になっていた。

『春になったら一緒に住もう…』
渉の合格発表の日。 二人が初めてkissをした公園で裕壱が、渉の耳元に囁いた。
伝わる温もりそのままに渉の心は裕壱に包まれていった。 これから始まる新しい時間に想いを馳せ、
自分達の関係を一歩進める為に渉は、ゆっくり、頷いた……
「……なのにさっ!!」
カーテンの隙間から差し込む朝日に目を焼かれながら、渉は、呑気に寝息を立てている裕壱を睨みつけた。
(……なんで俺達、カーペットの上で寝てんだよ……なぁ、架月……何考えてんだよぉ〜〜)
見知らぬ女と一晩を共にし、無言のまま、砂を噛むような朝食を無理やり喉に流し込み、渉は、独りでマンションのドアをくぐった。
『悪い……先、行っててくれるか?』
玄関先で見せた、裕壱の戸惑った表情……
(…わかってるさ…架月の理由があんだろ…?わかってるって…ば…)
信じている、信じているから、聞くことが出来ない、渉の心は、春の空に反比例した灰色だった。

さすがに裕壱と同じ大学、とはいかなかったが、同じ路線上の大学に通う事にしていた渉。 せめて、一緒の電車で通いたい、そんな渉のささやかな願いさえも、軋む線路の音に飲み込まれてしまいそうになっていた。 満員電車の中で、渉は孤独だった。右手で触れた指輪の温度が、とても冷たく、感じていた…… 玄関の鍵、ちゃんとかけたかな、始業式には間に合ったのだろうか…あの女は、今日も居るのだろうか…… 壇上の校長の言葉が、近く遠く聞こえる、しゃんとして、話を聞かなきゃ、なのに渉の心を占めているのは、裕壱だけ。 いつも…いつも、こうだと、渉は、舌打ちをした。
振り回されるのは、いつも自分だけ。 万能選手の裕壱は、なんでもソツにこなしてしまう。その後ろで自分がどんな想いをしているのか、わかっているんだろうか?
言ってくれなきゃ分からない事もある、好きあっていれば心は通じる、なんて、何処かの恋愛小説の中だけのことじゃないのか?
少しだけ芽生えてしまった裕壱への不信に驚き、両目をギュッと瞑って、唱え始める、愛しい人の名前を……

新入生説明会の内容なんてまったく頭に入らないまま、渉は、帰路についた。 鞄から取り出した節電モードの携帯の液晶画面は、真っ黒なままだった。
「ただいまぁ…」
「おかえりなさい…!」
(………………え…)
渉の目の前に白いエプロン姿で立つ女の人。
「す、すみません、部屋、間違えました」
ペコリと頭を下げ、脱いだ靴をもう一度履き、ドアノブに手を……
「…って、ここは、俺の部屋だっ!!」
見慣れた、とまではいかない部屋だけど、間違いない、裕壱と渉のスゥィートルームだ。
今は、若干1名定員オーバーだが……
(まだ…いたのか………)
「裕壱さんなら、サークルに寄ってから帰るから、先にご飯を食べておくように伝言、受けてます!」
嬉々として…そう、渉には、彼女が嬉々として裕壱の名前を言っているように思えた。
まるで、自分が裕壱の恋人のように……… 恋人?そう、なんだろうか……彼女は、裕壱の……?取り留めない考えが渉の思考を占領し始めた。
観察そのいち、どう若く見積もっても架月よりは、10歳、年上、だよな……
観察そのに、長い黒髪は、瞳子さんに似ていて、架月好み、かもしれない、
観察そのさん、あの左手の薬指に光っているのは……結婚指輪……だよな……
自分と同じ…愛している人がいる証。
なのに、どうしてこの人は、ここにいるのだろう?裕壱と渉だけの部屋に。 どうして、二人で選んだモノ達に触れているのだろう、
向ける相手のいない怒りが込み上げてくる。 ふいに、渉は、自分が泣いているのに気づいた。
ぽたぽたと零れる涙が、真新しい床に小さな水溜りを作っていく。 小気味のいい包丁の音が、響く部屋。
違和感、嫌悪、喉の奥につかえた黒い塊を渉は、必死に飲み込もうとした。
「……ごめんなさい!」
それは、いったい誰への謝罪なのか、自分でもわからないまま、渉は、寝室に飛び込み、そのまま、鍵をかけた。
(……なんなんだよ!!この気持ち……苦しくて息が出来ないよ……架月……架月……早く、帰ってきてくれよ……)

「出てこない?」
新入生勧誘の準備で思ったより遅くなった裕壱は、マンションに帰るなり、渉が部屋に閉じ篭ったままだという事を知らされた。

『…こんな時間にどうしたの?』
そんな常套手段の台詞で声を掛けてきたのは、4年前の佳織。 現在進行形で裕壱と渉の部屋に居続ける女の名前。
鳴上佳織。
緑陽高校に合格した夏。裕壱にちょっとした事件が起こった。 優等生として歩いてきた人生。何をするにも穏やかな微笑みを忘れず、男女問わず、優しく接し…それゆえに自分が欲する物でさえ『架月裕壱』のイメージに合わない、と判断すれば、諦める。 現状維持の為の時間が、ふいに何故?という問いに変わって自分へ返ってきた。 それは、思春期の心の揺らめき、だったのか…現在の裕壱から見ると『馬鹿な事』になってしまう事なのかもしれなかったのだが…
『架月くんって、何でも出来る王子さまvって感じだよね!』
本意ではない賛美を浴びてもそれは、ただ、むなしいだけで。 このままの時間を過ごしてもいのか?
先の時間に不安を覚えた。 何かが欲しくて駄々を捏ねる子供のように。
ある日、学校の帰りに自宅とは反対の方向へ歩き始めた。 自身でも気づかないうちに……
踏み込んだ先は、ネオン輝く歓楽街。 目の毒になるような短いスカートのおねえさんが、3分おきに声をかけてくる。
裕壱にも性欲がないわけでは無い。健康な男子ならごく当たり前の欲望。 しかし、それをお金で買うような真似は『裕壱』はしない。そんなとき、佳織に声を掛けられた。 そして、裕壱は誘われるままに雑音の中に身を任せた。
たぶん、今までの自分を壊したいと衝動的になったのかもしれない、後から裕壱は思った。

『…俺……』
『緊張、してる?』
真っ赤な唇に笑みが浮かぶ。 とたんに羞恥に頬を染めた裕壱。 初めてなのかと聞かれ、裕壱は素直に頷いた。だったら、話から始めましょうと、備え付けの小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出し、硝子のテーブルに置く。 長く伸びた爪をラメのマニキュアで飾っている。 少なくとも自分の知っている女性には見ない色合いだった。 その爪が冷えたプルトップにかかる。勢い良く引くと僅かに中身が零れ出す。薄桃色の舌先が、汗をかいた缶の縁を這う。 その様をゆっくり目で追いながら、裕壱もビールをあおった。閉ざされた空間は現実とは切り離された場所で、落ちた照明が、互いの表情を曖昧にしている。名前も知らない女性とホテルの一室に二人きりでいるというのに裕壱は妙な安堵感に包まれていた。
ここには、自分を知る者は居ない。 優等生の架月裕壱はここでは、通用しない。
『…息して、いいのかな……』
ふと口をついて出た言葉を追求される事もなく、他愛も無い会話を交わしながら、時間を重ねた。
空き缶が仲良く二つずつ並んだ頃、裕壱は口紅の香りを感じた。 閉じた瞳の向こうで濡れた音がしている。
軽く、口付けられる度に裕壱の熱も上昇する。 誘われるままに佳織の手を取った裕壱は、初めて触れる大人の女性の香りに理性が飛びそうになる。
まだ、優等生を脱げないなと、自嘲しながら佳織の背に腕を回す。 行為の手順など知らなくても湧き上がる欲望が、裕壱の身体を動かす。制服越しの愛撫に初めての欲を覚える、裕壱。
その熱を追いたくなり、佳織の胸元から左手を滑り込ませる。 触れた肌は、暖かく、柔らかい…
『……んっ………!』
佳織の指が、裕壱の下肢に絡みつく。その感触を直に感じたくて、服を脱ぎ落とし、ベッドで重なり合う。しかし、佳織の指が、先を促すように触れた一瞬で、達してしまう。
『……あ』
一度、欲を吐き出して我に返った裕壱は、目の前で微笑む佳織を正視出来なくなった。先刻前までのうねるような欲情は、姿を消し、居心地の悪さだけが、裕壱に残った。こんなときどうしたらいいのか、だらしなくも震える手で学生鞄の中から財布を探す。
これでいいのかと、佳織をみやる。
『クスッ……いいのよ………サービスしてあげる……未遂、だったしね?』
『…………………!?』
裕壱は、乱れた服装を直し、改めて詫びを入れ、部屋を出た。 らしくない事をしてしまった罪悪感?
それとも自分にもまだ出来る事があるかもしれないという安堵感? 裕壱は、今の感情に理由をつけないことに決めた
そして、小走りになりながら、裕壱は自分の肩を抱いた。 まだ、残る佳織の甘い匂いを感じながら…

「裕壱くん?」
「あ……ごめんなさい、なんでしたっけ?」
「ううん……いい加減、ここ出なきゃね……」
「連絡、ついたんですか?」
「…まだ、だけどね……なんだか私、渉くんに嫌われてるみたいだから…」
渉が、出て行ってしまった部屋で佳織は、再会した裕壱に初めて名前を名乗り、自分の身の上を話し始めた…
『よくある話なのよ…』
そんな自嘲めいた台詞で、佳織は、やつれた笑顔を見せた。 生活の為に身体を売り、子供が出来たのを切欠に、客だった男と籍を入れた。自分にも人並みな幸せが持てるのかと、嬉し涙した時間は、長くは続かず、男は家を留守にし始める。
そんな、人生なのよと、笑った横顔が悲しくて、一時の同居を認めた、裕壱。
もう、そんな男とは別れようかと思った矢先、引越しの真っ最中の裕壱に出逢った、佳織。
妙な偶然が、佳織を子供じみた行動をさせてしまった。 自分が居なくなる事で、男の本意を確かめたい、そんな佳織の女ゆえの我侭が名前も知らない年下の男の部屋を訪ねさせたのだ。
「でも、よく俺の事、覚えてましたね?」
「あら?あなたみたいな綺麗な男の子、一度見たら忘れなくてよ?」
そう言って、首を傾け微笑む佳織が、あの夜の時間を裕壱に思い出させた。
「私もあつかましいって思ったわ。本当よ?それくらいの常識は持っているつもり、だったのよ……」
でもねと、その先をためらう佳織。
「……佳織さん、本当に旦那さんの事が好きなんですね?」
「………え…?」
出逢った頃とは比べようもないほどの男前な顔で、裕壱が、話す。
「佳織さんは、旦那さんが好きだから、確かめたくなる、そうじゃないんですか?わかっていても確かめたい……理解していても言葉にして欲しい……そんな想いって……ありますよね?」
「…初めて…あなたに名前を呼ばれたわ…」
「ええ、今までは名前も知らない同士、でしたから…」
そうねと、少しだけ明るい顔で、佳織が笑う。 忘れていた時間だったのに。 あの頃の不安定な自分を知る佳織を放り出しておけなかったのか。 いや… もしかしたら、渉に二人の間にあった事を知られたくない為に佳織を監視する為、なのかもしれない…… 裕壱は、ここに佳織と一緒にいる理由を思い始めたのだった……

その夜、どんなに呼んでも渉が寝室から出てくる事は無く、明け方、扉の閉まる音に目が覚めた裕壱は、寝室のドアノブに飛びつく。しかし、そこに渉の姿は無く、僅かに皺の寄ったシーツだけが、昇り始めた朝日に照らされていた。
「…………渉っ!?」
靴を履く事ももどかしく、非常階段を駆け下りる。 エレベーターなんて待っていられないからだ。
まだ、地上から、遠い場所で裕壱は、小さくなる後姿に向かって叫んでいた。
「渉―――っ!!お前の居る場所に戻れよっ!!」
ごめんと、渉は縋りつく声を振り切ってタクシーを止めた。 カンカンという、金属音が近づいても振り向かない。
「……行ってください」
理由を、 言い訳を聞くことすらつらくなった渉は、一番卑怯な方法を選んでしまったのだった……
家を出た、なんてカッコイイ事を言っても行く場所は実家しかない訳で。
渉は、住み慣れた自室の床に寝転んだ。 両親は、留守。 花鈴が、驚いた顔で、架月さんと何かあったのかとしつこく聞いてきたが、今の渉に、何かがあった、とは、言えなかった。 なぜなら、裕壱から何も聞いていないからだ。 なのに、自分はどうしてこんな場所にいるのか? 一ヶ月前、一緒に暮らすとあんなにはしゃいでいた自分は何処にいったというのか。
「俺も大概、ガキ、だよな……」
嫉妬。
(これは、紛れも無い、嫉妬なんだ……それだけわかってんなら……)
自分で自分の気持ちに突っ込みを入れてみても、どうしようもない気持ち。 たとえどうしようもない事情があったにしろ、裕壱は、二人の部屋に他人を入れた。それは、事実。
それが、渉の心を重くした。 裕壱は男、自分も男だ。
だけど、愛し合ってる、誰よりも大切な存在だ。 だけど…裕壱には、あんな女性が似合う。
惚れた欲目じゃないけど、裕壱の整った顔には、大人の女性が似合うと思った。
抱きあった二人を見て、そう、感じたと、渉は、顔を両手で覆った。 今更…
(…架月の何を疑うっていうんだ?あいつはいつも俺を好きだって言っているじゃないか……あの熱い唇で何度も…何度も…俺が、イヤだって言っても絶対、手を止めてくれなくて……)
愛してくれる…あの時間は、絶対、なのに…… どうしようもなくざわめく心に急き立てられるように、行き場の無くなった想いが、口をついて出る…
「……架月……架月……逢いたい…だけど…怖いんだ………」
何度目かの溜息をついて、真っ白なままのノートに視線を落とす。 教壇で熱弁を振るう先生が、宇宙人に思えた。
(…何言ってんのか、ぜんぜん、わかんね……先生なら、地球語で喋ってくれよ……)
裕壱と離れた時間を過ごしてから何時間も経っていないというのに、今の自分に足りないのは、裕壱だ、と、自覚し始める、渉。 だけど、自分自身でも理解できない想いがある以上、裕壱の所へは帰れない。 そう、決めていた。 なのに…… 渉の耳に聞きなれた着信音。

――架月だ!!

『校門で、待ってる』

表示された文字を読み終え、渉は、窓の外を見やる。 門柱の影に見え隠れする縞のジャケットは……沖縄旅行のとき、お揃いで買った……恥ずかしいヤツだと、あれから一度も手を通した事は、無かったのに。 渉の顔に自然と笑みが零れた。 もう少し、待たせてやれと、帰り支度をし始めた同級生の背中を見送りながら、ゆっくりと、バッグの口金を外した。
(やっぱり、話を聞こう、もう、限界だし………)
いつの間にか、微笑んでいる自分に気づかない渉だった。
「…で、説明、してくれるんだろうな…」
渉は、向かいの席で、アメリカンをブラックで飲んでいる涼やかな美貌をした恋人に詰め寄った。
「……ぁ」
言いにくそうに視線を逸らす、裕壱。
「…あの、だなぁ……」
付き合い始めて渉は、いろんな裕壱の表情を見ることが出来た。高校時代の凛とした顔は、人当たりの良い自分を演じる為、見栄っ張りな部分を隠す為、本当の裕壱は、大声で怒鳴ったり、真っ赤になって照れたり、嫉妬まで、する。
そんな裕壱を見てきたはずなのに
(…今日の架月の顔は、新発見だ……)
確か自分は裕壱を怒っていたのではなかったのか?と、自問しても込み上げてくる笑いを我慢出来なかった。
「…おい………」
案の定、不機嫌な声が飛んでくる。
「ん?」
平静を務めても言葉の中に笑いが入っていちゃ、さすがの裕壱も言いかけた言葉を飲み込んでしまった。
「お前……その態度はなんなんだよ!…人が今回の事を反省して、大学サボってここまで来たっていうのに……」
完全に拗ねモードの裕壱。
「…プッ!ご、ごめん、ごめん!!だってさ……」
「だって?なんだよ………」
もしかして、このまま理由を聞けなくてもいいかな?って思い始める、渉。
「だってさ……こうして、架月と一緒にいると他のことはどうでもよくなってくるんだ…確かにさっきまで、俺、架月の事怒ってた。もう、帰らないつもりでもいた。なのにさ架月の顔を見た途端、どうでもよくなっちまうのって、どうなんだろ?」
「どうなんだろうって……渉、お前、言っている事とやっている事に統一性、無いぞ?」
ああ、そうなんだ……… 膨れっ面の裕壱を目の前にして、なんだか、一人で納得して、一人で怒った自分が、馬鹿馬鹿しく思えてきた。
(……俺、こんなにも架月を……だけど、今は、言ってやんない!)
また、笑い出した渉を呆れたように見たまま、裕壱は、カップの中身を飲み干す事に集中した。
ひとしきり笑った後で、渉は、裕壱を正面から見据えた。裕壱の瞳にも真剣さが、戻る。
「…確かに今回の事は頭にきた。架月、俺の意見なんて聞きもしないで、勝手に他人を泊めるんだもんな。俺達の初めての……その……夜……っと、一緒に暮らし始めるって初めての晩!だったろ??なに考えてんのかって、お前の性格、疑っちまったよ。だけど……俺と出会う前の架月もいるんだよな。もちろん、俺にだって架月に言えない過去がある、かもしれないけどな?」
ここは突っ込みどころだぞ?と、テーブルの向こうで、自分を真っ直ぐ見つめてくれている人の瞳を見返し、渉は、言葉を繋いだ。
「俺は、架月を信じている。それは、きっとこの先ずっと変わらない。だから、架月の過去に何かあったとしても……俺は、そんな架月もひっくるめて、架月裕壱って、一人の人間を好きになったんだ……って、俺、何、語ってんだろ……?ヤベ……なんか、恥ずかしくなってきた……」
不意に俯いてしまった渉の左手を掴み、裕壱が言う。
「行こう」
「って、何処行くんだよ!?か、架月、い、痛いってばっ!!」
思いつめたみたいな顔の裕壱に左腕を囚われたまま、渉は、早足の背中を見つめた。
「……か、架月ぃ〜〜〜!?」
黙って付いて来てみれば、いったいここは、何処なんだ?と、渉の思考回路が三度、混乱し始めた。
昼間だっていうのに薄暗い室内。絨毯を貼り付けたような防音バッチリの壁。そして、何故かピカピカに磨かれた大きな鏡が貼ってある。
「あ゛っ……天井にまで………」
そう……大きなシルク生地に覆われたベッドの真上には、いい感じの角度に、鏡。
「でもって………」
何故か、部屋の半分を占めるバスルームは、透明な壁で囲まれてる………
「ここって……………」
正解です!!渉くん。
雑誌でしか見た事の無かったいわゆる、ラブホテル、って場所に自分は、いるのだと理解するのにたっぷり、10分はかかってしまった。
「……渉…」
切なげな声が背後から迫る。当然、声の主は、架月裕壱。 でもどうしてこんな状況になったのか、渉には聞く権利がある。こんな場所で、相互の意見が食い違うなんて…強姦!?そんな馬鹿な考えまで浮かぶ始末。相当に舞い上がっているのを感じずには要られなかった。
「ヤバイっしょ!!」
必死に押し戻そうとする渉の身体を裕壱は、じりじりとキングサイズのベッドに追い詰める。熱くなった吐息は、渉の首筋に絡み始め、気を抜くとそのまま、意識を持っていかれそうになる。器用に片手で広げられた渉のシャツの下の肌に裕壱の濡れた唇が落ちる。 腰に力の入らなくなった渉は、一気に押し倒される。
「ま、待てったら……か、架月!!」
「……なんだ…?…渉のここは、待ってくれそうもないけど……?」
ジーンズの上から触れられた場所は確かに裕壱のご指摘どおり。 裕壱の指を知っている渉の身体は、体温を重ねただけで反応してしまう節操なしで、こんなときの裕壱は意地悪いほど、渉の弱いトコを攻めてくる。
(…だから!!そんな超絶色っぽい声で、んな事言うなよ!俺まだ、なんにも聞きてないし……!)
「架月!架月!!話、話!!!」
馬鹿の一つ覚えのような台詞を繰り返す渉の抵抗を軽々と封じ込め、裕壱の唇は止まらなかった。痛いくらいに押さえ込まれた下半身が、覚えのある疼きに翻弄されそうになる。
「……ぁあっ……!!」
晒された素肌に熱が降るたびに渉の頭は、裕壱でいっぱいになる。裕壱が辿る先を期待し、裸の腕を絡めてしまう。
それでも、なけなしの抵抗で、反論する。
「……架…月…ずる……い……こんな……の……」
「ずるいのは……渉、お前だ……」
するりと内股を撫で上げながら、そんな事を言う、裕壱。
「なっ…俺が、どうして………」
「あんな事、言われちゃ…我慢、出来なくなる……」
「……えっ……?」
少し息の上がった、上気した顔で裕壱が告白する。
「俺の大好きな笑顔と一緒に、あんな『愛の告白』されちゃ、期待に答えたくもなります」
なんて、理由だ。と、渉は、吹き出してしまった。 普段は、憎らしいほど冷静なヤツなのに時々こんな突拍子も無い行動をする。
「あれ……?」
「なんだ……?」
「いや……」
裕壱の唐突な行動、思えばそれは、全部………
(……俺絡み、じゃんか……)
自惚れてもいいのかな?自分は、この完璧優等生を唯一、崩せる勇者なんだと。
渉は、肺の酸素を入れ替える為に、大きく深呼吸した。
「……おい……いい加減、こっち見ろよ……」
「……うん」
今度は、素直に裕壱の与える快感に身を任せた。

「ったく……俺に言い訳くらいさせてくれてもいいだろう?」
まだ、だるい身体をベッドに横たえたままの渉にまた、不機嫌モードになった裕壱が、溜息混じりに愚痴り始める。
「……だから……悪かったよ……」
「うん……わかってる……聞いてやるよ、言い訳」
「このっ!!偉そうに………」
するりと裸の腕を裕壱に絡めながら、上目遣いの渉。
「ほら、言ってみろよ!」
「…お前……完全に楽しんでやがるな……」
いろんな裕壱の顔。 渉は、もっと見たい、そう、思った。
「…彼女……自分の家に帰ったよ……」
「そう……か………」
ん、架月なら、そうしてくれる、わかっていたような答えだった。 しかし、その先の言葉を聞いて、渉は、痛む腰を庇う事も無く、ベッドに飛び起きる事になる。
「あの女(ひと)は……俺の……厳密に言わない相手、なんだよ……」
不意に裕壱の語った真実に、対応できない渉。
「何?厳密って………あ………!!」
裕壱に初めて抱かれた日、まだ、治まらない鼓動のまま、見上げた唇は、意味深な言葉を言っていた。
『厳密に言うと、俺も誰かと寝るのは初めてだよ』
その時は、それ以上追求しなかった、たった一言。
「〜〜〜〜〜〜っ!!ってなぁ!!架月!!じゃ、じゃあ、あの女と……架月………」
「…………だから……」
言うのがイヤだったんだ、と、消え入りそうな声で、裕壱が言い訳を続けた。
そして、ゆっくりと間に合った言い訳を始めた。 時折、渉の瞳に涙が、光ったが、それが、佳織への同情の涙だと知って、
「お前ってヤツは…」
「ん?」
「やっぱり…敵わないな…」
そう言って、裕壱は、再び、身体を重ねる。
「か、架月……?」
「何?」
「どうしたんだよ!?……俺、まだ……」
「…だって……時間、余ってるじゃないか……」
そういう問題じゃないだろ?心で突っ込みを入れてみても、それ以上の抵抗は、渉には出来なかった。肌を滑る裕壱の指の熱さに……そして、触れた薬指の指輪の感触に急速に渉の熱が上昇した。
(……架月…好きだ……大好きだよ……?)
たぶん、ずっと、こんな些細な不安で、すれ違う事もあるのだろう、 だけど、俺は、その度に、架月への想いを新たにしていくんだろうな…それが、俺の決めたことだから。 ずっと、架月を好きで居るって決めたことだから。
だから、架月もずっと俺を好きでいろよ?? な??……裕壱……
渉は、二人のマンションを見上げながら、前を歩く愛しい人の背中に、向けて、薬指を突きつけた。

「これが、ある限り、俺達は、一緒だ………もう、迷わないよ………」



終わり