夢魔



風がやんだ。
周囲の空気が異臭に包まれる。
薄暗い洞穴に微かな水音が響く。ごく近く…
身の内に感じる痛み…
進む道は未だ見えず、視界を遮る乳白色の霧が、重く垂れ込める。
絶え間ない水音。
その正体に耳を澄ませば、胸の虚(うろ)から流れる
真紅の血。
傷ついた胸から流れ出る、自身の血が流れ出る、音。
だが、歩む事を止められない。
先に対峙すべき相手がいる。
逃れられない運命の上をひたすら歩く。
まるで、それが、唯一のように…

失血が視界を不明瞭にしていく。
白く、濁らせていく…
(…あぁ…私は…このまま……)
薄れ行く意識に身を任せようとした時、声が、した。
「…やっと、逢えたな…」
冷たい声音。
それが対峙すべき相手。
玄武のシンを傷つけ、苛む、相手。
(あなたを滅します…たとえ、この身が朽ちようとあなただけは…)
霧が、二人の間より、退く。
シンは、霞む意識を前方に集中させる。
輪郭が露になっていく。
紅い、髪の、神々しいまでの神気を纏った相手を凝視する。
「ああ、あなた、だったのですね」
まるで最初から、わかっていたかのように、シンは天を仰いだ。
(あなたが、私を殺す相手なのですね…わかっていて、私は…!)
「…シン…来い……」
忘れるはずのない声が、温もりが、シンの上に降る。
「…ユダ……」
真紅の髪の天使は、ゆっくりとその翼を広げた……

「……………っ!?」
窓に掛かるカーテンが朝日を含んで、その色を薄くしていた。
「…朝、なのですね…」
独り寝のベッドの上でシンは長い溜息をついた。
連日連夜、シンを苛むモノ。

『…シン…来い…』
夢の中のユダは壮絶なまでの美しさであった。
魔に侵されながらもその輝きを失ってはいない。
あのまま、息の根を止められようとシンは、最後の息の時まで、ユダを見つめ続けたであろう。
自分のすべてをかけて愛した人だから…

「シン、まだ寝ているのですか?」
扉の向こうからレイの声がする。
「あぁ…起きています」
「そうですか…他のみんなはもう広間に集まっていますよ」
「すぐ、行きます」
時は、何も変わらず四聖獣に上に等しく訪れていた。ただ、シンだけを除いて……
「…顔色が悪いですね…ちゃんと睡眠は取っているのですか?」
広間に到着したシンに素早く近寄り、レイが心配げに顔を寄せてくる。
(…ああ、そうだ…レイもまた……)

『我を裏切りし者よっ!我が怒りを知れっ!!』

ゼウスの力は、絶対だった。
ついに反旗を翻したユダとルカは、その圧倒的な力の前に屈するより他は無かった。
六聖獣としての資格を剥奪され、ルシファーの統治する地獄へと送られて、すでに久しい。

『…ゼウス……っ!…このまま…このままで…いられると思うなっ!私は再び…お前の前に…っ!!』

それが、ユダの姿の最後、最後の言葉だった。
ゼウスへの憎悪の言葉だけを残して、二人は、天界を追放された。

(…いつか…いつか、あの夢のように私はあなたと……!)

「大丈夫です。まだ……」
「……シン…」
シンの瞳には、悲しみ以外は何者も映らなかった。
自身の半身を失っては、呼吸さえ出来ない…
(逢いたいのです…たとえどんな形であろうと…だけれど…それが、私達の最後の逢瀬、かもしれませんね…)
「シン、レイ、早くしろ。始めるぞ」
ゴウが、長らしく、禁じる。
「そうだよ、待ちくたびれちまったっ」
ガイは、テーブルに肩肘をついて、面倒は早めに終わらせたいとその無邪気な瞳で訴えていた。

まだ―
まだ、大丈夫です。
あなた達が供にあれば

……神よ いつか私は、私の半身を取り戻します
それがどんな手段になったとしても…


END