■同じ空の下で■
「お〜い、渉っ」
待ち合わせの駅のベンチで何度か欠伸を噛み殺している渉の遙か前方から川村が手を振りながら走ってきた。
「悪りぃっ。遅くなった」
肩で息をしながら両手を合わせて謝罪のポーズを取る、川村。
「いいよ、ここ暖かくて気持ちよかったから」
眠そうな声で渉が答えた。深く腰掛けたベンチは渉の言うとおり、日当たりがよさそうだった。このままの陽気が続けば、桜の蕾もほころぶだろう。そんな余裕な事も考えられるのは、第一志望校に合格、晴れて大学生となっていたからだ。川村もなんとか合格、高校も自由登校になり、今日は、久々に逢った二人。
渉を促して歩き始めた川村は、携帯のメールチェックをしながら話しかけてきた。
「なぁ、お前本当に架月と一緒に住むのか?」
いきなりの直球質問をされ、渉の眠気は一気に吹っ飛んだ。
「ど、ど、どうして知ってんだよっ」
「ん?この前、スーパーで花鈴ちゃんに逢った」
「アイツぅ…」
大方語尾にハートマークでもくっつけて嬉々として川村に話したのだろう。元より川村には後で話すつもりだったのだが、それでも渉はムッとした。
「本当だよ。架月のマンションで4月から」
渉は躊躇せず、質問を肯定した。
『来年の春から、一緒に住もうか』
沖縄旅行の時、告げられた言葉。それが現実になろうとしている。裕壱と想いが通じてからの事が思い出され、渉は、そっと瞳を閉じた。
藤井渉、緑陽高校3年、春からM大の1年だ。「恋人」の架月裕壱とせめて通学の方向だけでも一緒にと選んだ大学。もちろん、本人は相当の努力をしたのだが…その努力の過程の中でこれからも二人に関わってくるであろう浅香雅展と出逢った。彼は、渉に恋したと言い切った。もちろんそんな言葉に裕壱は惑う筈も無かったが、当の渉は……
「渉?」
「え?」
「また、妄想に浸ってたのかよぉ。それとも週末の寝不足かぁ?」
からかい半分の声と一緒に渉を肘で突付いた。
「…ご、ごめん……」
ほんのり頬を染める仕草にまんざらハズレでもなかったかと、溜息をつく川村。渉の親友として二人の想いが成就していく様を見届けるハメになり、一時は二人の事を羨ましくも思った時もあったが、今は自分にも年上の恋人が居る。
「それもこれも、お前のお陰か…」
「なんだよ、急に…」
「いや…お前の友達でよかったなって話だよ」
「やめろよ…いきなり…気持ち悪いなぁ…」
「ま、いいや。じゃ、行くか」
二人は同級の男どもが集まっての卒業祝いパーティーへと向かった。
『で、連絡が付かなかったという訳か…?』
「ご、ごめん…だってさ、カラオケBOXの中って携帯の音、聞こえにくいし…」
『…バイブにして身に着けている、という手もあるが…』
「…うっ………」
さっきからひねた言い方で文句を言ってるのは、夜中近くになってかかってきた電話の相手、架月裕壱。春から国立大2年に進級する。現在は浅香雅展が在籍するリノ研の副部長になっている。
(…ったく…こんな時の架月は、子供っぽいんだよな。俺がどれだけ謝ってもいちいち嫌味を言うのを忘れないんだから…)
「本当に悪かったって思ってる。だから機嫌直してくれよ」
渉は思い切り、甘えた声を出してみた。
(…これで落ちなきゃ…)
また、嫌味の一つでも言われるのかと思いきや以外にも裕壱から発せられたのは謝罪の言葉。
『…わかった…俺も言い過ぎた……』
(…えっ…落ちた…?…やったぁ…)
『…お前、今……やった、とか思わなかったか?』
「…げっ……」
(…なんで…?)
『お前、単純だからな。今のはお前の作戦にわざと、引っかかってやったんだ』
「架月い〜〜」
『悪いと思ってるなら…これからテレホンセックス、しないか…?』
「……へっ…?…い、今、なんとおっしゃいました?」
思いもよらぬ発言に言葉がつなげない。裕壱が本気なのか思い惑っていると、耳に強く押し当てた携帯の向こうで押し殺した笑い声が聞こえてきた。
「……か、架月…?」
『…わ、悪い……渉っ……冗談だよ』
悪いと言う傍から、裕壱は声を立てて笑いだしてしまった。
『ホント、冗談だって。渉の間抜けな顔が見えるようだな』
そう言って裕壱はまた、ひとしきり笑った。いつまで経ってもこの容姿端麗、頭脳明晰、絵に描いたような優等生の架月裕壱には叶わないと、長い溜息をついた。
『明日、俺も行くから…』
「えっ…?」
その意味を一瞬取り損ねて疑問の声を出す。
『明日、卒業式だろ?』
「…あ」
そうだ、渉は改めて明日が自分の卒業式なのを思い出した。壁には母が綺麗にアイロン掛けをしてくれた制服がかけてある。それを着るのもあと一日。
『だから、第二ボタンは誰にもやるなよ』
「……架月…」
「……あのな、渉」
本日、緑陽高校の卒業式。しかし、何故か、渉は自宅のベッドの上。その傍らには腰に手を当て、仁王立ちをしている裕壱が居た。
「…ごめん、架月」
「ったく…ガキか?…お前」
憮然とした態度の裕壱を前に渉は合わせる顔も無く、布団の中に潜り込んだ。
「腹痛、だと?で、卒業式を欠席?…やってくれるぜ…」
「…うぅ……」
裕壱の毒舌は止まる術を知らないようだった。
「…だけど…よかった……」
「えっ…」
ベッドが軋んで裕壱がそこに腰を下ろした事がわかった。
「ただの腹痛で…」
出掛けに携帯が渉からの着信を伝えた。「卒業式出らんなくなった」と記された液晶画面に驚き、そのまま渉の家にやってきたのだ。
「…ごめん」
布団の端から顔を覗かせるとその視界いっぱいに裕壱の優しい笑顔があった。安心したというのは、本心なのだろう。そんな裕壱に渉はもう一度謝った。
「心配かけてごめん…もう、大丈夫だから…」
朝起きた時は、盲腸じゃないかというほど痛んだお腹は今はなんともない。せっかく卒業式の為に美容院に行ったのに、文句を言った母親だったが、もうなんともないんだったら、せっかくだから買い物でも行って来るわと、渉は留守番を任されてしまった。
「今からでも行くか?卒業式…」
「……………………」
時計はまだ10時40分を指していた。
「いいや…」
「そうか…じゃあ、今度…一緒に緑陽高校へ行こう、俺がお前の卒業式をしてやる」
「……えっ」
「…だから今日はとりあえず……渉、卒業、おめでとう」
「……うん」
「それから、早く俺のところに来いよ……」
その言葉と一緒に羽根のような口付けが渉の額に降りた。
「…架月」
「……待ってるから…渉と一緒に暮らすのを…」
ふいに熱くなった空気に渉は息を詰めた。裕壱の囁く声だけで、身体の芯が熱を孕み始める。頬が赤くなっていくのがわかって、裕壱の視線から逃れた。
「……渉」
艶を含んだ声で名前を呼ばれ、なけなしの理性も飛んでしまう。
「……もう…キスだけじゃ…足りないな……」
渉はその言葉に苦笑しながら背中に回した腕で答えた。
夕刻、無人の緑陽高校の前に二人は立っていた。
「いいのかなぁ…」
互いの熱を交わした後、どうせなら誰もいない学校で二人だけの卒業式をしようと裕壱が提案する。二人だけ、その秘密の匂いのする言葉に渉は頷いた。
『でもさ……』
(…俺がわけわかんなくなってる時にそんな事考えてたのかよ…)
『なんだよ……いやなのか…』
『違うよ…嬉しいよ…架月……』
3月13日、二人は一週間遅れの卒業式をする事を決めた。
「だからって何もこんな時間にしなくたって…」
「いいじゃないか、一度、夜の学校ってのも体験してみたかったんだ」
もちろん、警備の人もいる。だからおおっぴらに学校内を歩く事は出来なかったが、それでもこれで本当に一緒に学校を歩けるのが最後だということが渉の心を占めていた。
通気の為に鍵の掛かっていない体育倉庫の窓から忍び込んだ二人。いつもより靴音が響く廊下。静かな教室。見慣れた筈の学校が違う場所に見える。
「…あ、この水呑場だったよな、架月が指輪を取り違えたのは」
「ああ、そうだったな」
「あん時の架月、マジでイヤなやつだって思ったよ、俺」
「だろうな…」
「……………」
「俺だって、どうしていいかわかんなかったんだ。まさか俺に水をかけたのが渉だなんて思いもしなかったからな」
「架月ってさ、あんな風に知らないやつに水かけられてもいつもハンカチ貸したりしてたんのか?」
「ん…俺、親切な奴で通ってたからな。アレが誰でも同じこと、してたと思う」
「じゃあ、ここで顔を洗ったのが俺でよかったんだ」
「でなきゃ…」
「今こうして一緒にいない」
二人同時に言葉を繋いだ。
「うん、そうだな…よかったんだ」
「白状するよ」
「えっ」
「今日は、お前の卒業式だからな。俺からのプレゼントだ」
ゆっくりと渉を抱き締め、自身の温もりを与えるように耳元で告白する。
「…いつも…どうしていいか…わかんなかった…俺の気持ちを知られないようにするのが精一杯でお前の気持ち、考えてやる余裕が無かった…」
「…架月」
「…だからいつも夜になると自己嫌悪でいっぱいになった。きっと今日の言葉はお前を傷つけただろう、もしかして、泣いているかもしれない…とかさ…」
「俺……そんな泣き虫じゃねぇよ…」
「そうか…?」
溜息にも似た声音が渉を包む。
「俺が…俺が好きになった笑顔をもう一度見たい…そう切望していたのにお前の顔を見るとどうしたって…」
「…ドキドキしちまう?」
悪戯っぽく裕壱を見上げる、渉。
「……バカ…違うよ……いや…そうかな…憎まれ口でも利いていなきゃ、押し倒しそうだったからな…」
「……スケベだからな…架月は…」
小さな笑い声が二人の間でキラキラ輝く。
「そんなに…俺の事、好きだったんだ……」
「なんだよ…今日はずいぶん強気なんだな…」
「俺の卒業式、だからな」
「…まぁ、許してやるか」
慣れた仕草で顔を寄せ、互いの吐息を混じり合わせる。そして、そっと手を握り合わせ、階段を登り始めた。かつて裕壱が在籍していた教室を覗く。すでに夕闇に包まれていた教室に色が戻った気がした。隣に裕壱がいるからだと渉は、傍らの愛しい人を見上げた。
だけど今自分が行きたい場所はここではない、と感じた。
「じゃ、行こうか」
何も問わず裕壱は、あの場所に向かった。
「生徒会室…」
「ああ…」
裕壱は無造作にズボンのポケットから小さな鍵を取り出した。
「まだ、この鍵は有効かな」
「お前……」
まだ、持っていたのかと問う前に扉は、小さな金属音と共に開いた。
「合鍵、持ってて正解だったな」
「…架月…お前って案外……」
「案外、なんだよ」
「…なんでもないっ。とにかく入ろう。ここに入るのは久しぶりだ」
「そうだな二人で入るのは文化祭以来だからな…」
扉を開けた瞬間、ここで初めて交わしたキスのこと、短い休み時間に忍んで逢瀬を重ねたこと、想い出が二人に押し寄せてきた。
「ここで…お前に絶好宣言、されたんだっけな」
「…そんな事もあったな」
「あの時、俺、すんげぇ後悔したんだ…だけど、もう架月には恋人がいるって思ってたから…ああでも言わなきゃ諦めきれないって思ってた…」
「俺達、初めから擦れ違いばっかだったな…」
「だけど…今、二人でここにいる」
「うん……」
ゆっくりと部屋の中を見渡し、近くの椅子を引き寄せ、手招きする裕壱。並んで座れば、時間は一気に逆行する。学生服で過ごしたあの時間に…
「…いつだってお前は俺のペースを乱してくれたよな。それがイヤでないことに気づいた時、俺はもっとお前に触れたくなった。だけど…ま、いろいろ障害があったからな…普通には出来なかったよ」
「……うん…今なら架月のそん時の気持ち、わかる気がする…」
「なんだよ…ますます強気だな…」
「…架月が傍にいるからな…」
「渉……」
腕の中に閉じ込めるように強く抱き寄せる…微かに香るシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる…
「渉…俺の部屋の匂いになってる…」
「……えっ…」
「…俺と…一緒だ……」
「………………」
「…お前に出会えてよかった…でなきゃ自分の中にこんな感情があるなんてわからなかったと思う。お前と出会わなければ一生気づかなかったかもしれない…感謝してるよ…俺と出会ってくれて…」
「そんな…俺は………」
「いいんだ…今日だけは言わせてくれ…そのかわり……今日、だけだ…」
「……うん」
見蕩れるほどの柔らかい笑顔が渉に向けられる。もっと近くで裕壱の声を聞く為に身を寄せる。
「…好きだ、渉…前よりずっと…このまま、お前を閉じ込めて誰にも触れさせたくないぐらいにな…俺の隣で笑っていてくれ…俺だけにその笑顔を見せてくれよ…これからもずっと………ずっとだ…」
「……架月」
裕壱が紡ぐ言葉が渉を侵していく。すべてを受け入れてしまう、そんな麻薬のような言葉…
(…そんな風に言われたら俺……もう、俺は架月でいっぱいだよ…でも、もっと欲しい…俺も架月が…)
うまく言葉に出来ない想いが、口付けになって裕壱の唇に触れる。このまま、二人交じり合えたらいいのにと、切に願った二人。
永遠に触れていたい肌の温もりを得るために身を寄せる。
愛を告げる。
互いを呼ぶ声が熱を呼び、身の内の欲望を満たしていく。この時間が永遠に続くと信じている恋人達の切ない声が、人気のない部屋に呼応する。
「………あっ……か、づき……んんっ…」
「…渉……そんなに大きな声、出すな……気づ…かれる…」
弾み始めた呼吸が切れ切れの言葉を紡ぐ。二人の間で洋服が触れ合う音が弾ける。
「…だっ……て…っ………んっ……あうっ………」
短いキスを繰り返し、そのひとつひとつに想いを託す。触れ合った唇の温度が上昇し始めるのにそう時間はかからなかった。裕壱の唇が確かな意図を持って頬から首筋に降りていく。開かれた鎖骨に落としたキスがスイッチになる。渉は次第に裕壱の指に唇に翻弄されていく。
ここが夜の学校だという事、生徒会室の扉には鍵がかかっていない事。そんな俗な事など今の二人には理由にならなかった。今、感じている体温が欲しい、ただそれだけで…
最初の約束どおり、渉は綺麗な裕壱の指がシャツのボタンを外していくのを見ていた。欲情に焦れた肌が淡く色づき始める。早くその唇で触れて欲しくて渉は裕壱の頭を抱え込む。剥き出しになった胸の突起を熱い舌で舐め上げられると渉の身体が小刻みに震える。裕壱の手の平が脇腹を滑り、下腹部で止まる。そしてジーンズのボタンをゆっくり外していく。躊躇いも無く差し込まれた左手が、すでに形を変えつつある性器を包み込む。やんわりと撫で擦ると渉の喉から絶え間ない快楽の声が漏れ出す。
「…んっ……あぁ……そこ……んんっ……」
「…渉……ここで……抱いて……いいか…?」
ぞくぞくするほど艶のある声で裕壱が訴える。渉は何度も首を縦に振る。渉もすでに止められないほどに欲情していた。
「…………愛している、お前だけだ…」
呪文のように囁かれる言葉が、渉の心を縛っていく。しかし、それは甘く心地よい呪縛だった。
渉の両脚の間に身体を沈めた裕壱は、ゆっくりと自身を埋めていく。渉は押し広げられるような不快感をやり過ごす。裕壱が与える律動に声を上げながらしがみついた裕壱の肩に爪を立てる。
突き上げる欲に声も、濡れていた…細く長い声が、漏れる…もっと欲しいと切望しながら…………
「……う…んっ……もう……架月……っ」
渉は喉を仰け反らせて、大きく身体を振るわせた。
「んっ……あ…わ、たる……っ」
締め付けられる強い快感に裕壱もすべてを吐き出し、ゆっくりと渉の上に倒れこんだ。
「俺さ…夢を見た」
「ん…?」
気だるい身体を互いに寄せ合ったまま裕壱が独り言のように呟いた。脱ぎ散らかした服が散らばる生徒会室は、もう、自分達の場所ではないと告げているように見えた。
「浅香雅展だよ」
「架月…」
「こんなに渉が近くにいるのに…俺は…いやになるほどアイツを意識している」
ふいに裕壱が渉の前髪を掻きあげる。怪訝そうな色が渉の瞳に浮かぶ。
「…負けたくないと思ったのは、アイツが二人目だ…」
「………………」
「たとえ…真正面からアイツと闘う事になっても俺はお前を信じている」
「……うん」
「だから……お前も揺らぐな。真っ直ぐに俺だけを見ていろ…な?」
渉はゆっくりと頷いた。そして裕壱が感じている不安を打ち消すように頬にキスを贈る。
「俺はいつだって架月だけだよ」
「…ありがとう」
照れくさそうに歪められた顔がおかしくて渉は小さく笑った。
「…もっといろんな架月を見たい。架月の全部、知りたい。架月自身がわからない事も…俺は……」
「…欲張りめ」
「…お前がそれを言うか?…こんな俺にしたのはお前だろ、架月…」
いつの間にか窓の外には新しい朝が始まろうとしていた。ここで過ごした時間を二人はずっと忘れないと誓った。二人が出会った場所を。
そして、これから始まる新しい時間に祈った。
願わくば、このまま二人、いつまでも共にありますように、と。
終わり