螺旋の行方



『兄貴、頼みがある』
携帯の向こうの声が固かったのを覚えている。裕壱がたぶん初めてだろう俺に頼み事をしてきた時の事だ。旅行をしたいから以前手掛けたホテルになんとか予約を入れられないか、というのだ。リゾートホテルとして家族や恋人達が過ごせるようにと設計したホテル。あえてそこを選んだということは、果たして彼女でも出来ての旅行かと思いきや、高校の後輩と一緒だと言う。名前は藤井渉、男だ。確か、貴子の元婚約者。その後輩と裕壱が旅行?何か、思考に引っかかりを感じた。
『何だよ、聞いてんのか?』
憮然とした声が焦燥感を伴って聞こえた。
「聞いてるよ」
『…どうなんだよ』
あんな裕壱も初めてだった。俺の返事を待ちきれない苛立ちさえ感じさせる弟の姿など。家では優等生の顔を崩さなかった裕壱。それがどうだ、あの様子…ここ一年か…裕壱が変わったのは…俺は、無性にその理由を知りたくなった。少し、動いてみるか…
「わかった、手配しよう」
逡巡して返答が遅れた事に苛立っていたのだろう、俺が承諾するとあからさまに安堵の声が返ってきた。高校の後輩と旅行…裕壱を変えた何かがそこにあるな、肉親の直感ってやつかな。
後日、浅香雅展と会う機会があった。彼は、大学でリノベーション同好会をやっている。その関係から知り合い、最近、俺の仕事を手伝ってもらっている。裕壱とは同じ大学で、付き合いもあった。何かと裕壱に接触しているのには他に何か理由があったのだろう。あの時点での俺は不確定要素が多すぎて決定的な答えを出せずにいた。だから、浅香にそれとなく探りを入れてみた。面白いぐらい浅香の様子が変わった。間違いなく、浅香は知っている。裕壱の旅行の意味を、この一年の間に何があったのかを。沖縄へ行く決心をしたのはそんな浅香の様子を見て取ったからもある。
歳の離れた弟とはいつも妙な距離感があった。もしかして、これは俺達の関係を変える大大きな切欠になるかもしれない。
「さあて、蛇が出るか鬼が出るのか…楽しくなってきたな。どうする?裕壱…」

「公園のお兄ちゃんの事?」
「公園の?」
「うんっ。貴子、公園でお兄ちゃんにぷろぽーずされたんだもん。だから、公園のお兄ちゃん」
沖縄に出発する前の晩、貴子に例の後輩の事を聞く事にした。『公園のお兄ちゃん』と頬を染めて話す娘に複雑な思いを感じながらも勤めて冷静に聞き出した。
「そうか…じゃ、その公園のお兄ちゃんの事、パパに教えてくれるかな?」
「パパもお兄ちゃんの事、愛してるの?」
「……えっ」
貴子の口から出た言葉に少なからず、ショックは受けた。5歳でも女の本能は働くのか?たぶん、裕壱の本意を感じたのだろう。二人の間の空気に…
「だって裕壱お兄ちゃま言ってたもん。公園のお兄ちゃんは裕壱お兄ちゃまの大事な人なんだって。だから貴子わかっちゃった、二人は愛し合っているんだって」
「……………」
「でもね、貴子、公園のおにいちゃんも裕壱お兄ちゃまも大好きだからね三人で暮らすの。そうしたらみんな幸せになれるからっ」
貴子の無邪気な言葉に正直俺は、言葉を失っていた。貴梨衣が言っていた揃いの指輪。確か緑陽高校で恋人の有無を示す為に指輪をするのが流行っていたと聞いた事がある。アクセサリーなど身に付けた事のなかった裕壱がその指輪をし始めたのも一年前。面白いようにはまっていくパズルのピース。
「この物語の結末は…彼次第、という事になるのか…」
俺も弟はかわいいんでね…ま、裕壱にかわいい、なんて言ったら思いっきり睨まれそうだけどな…
「こんなに楽しい事なんて仕事以外じゃ、久々だ」
俺は、知らずに微笑んでいる事に気づいた。

浅香と一緒に降り立った沖縄は、30度を越える暑さ。さすがにスーツ姿はきついと感じたが、ホテルまで我慢できないわけじゃない。前方をスーツ姿の集団が歩いている。こういう時、日本のサラリーマンは堅苦しいなと思う。なにもこんな沖縄くんだりまで来て、馬鹿正直にスーツを着込んでいるのか。もっと、臨機応変な取引が出来ないものかな。
「祥平さん?」
「あぁ、悪い。今行く」
とりあえず、今は俺も仕事だ。
東京での打ち合わせどおり事は進んでいて、俺のほうの仕事はすんなり終わった。後は現地のスタッフに任せればいい。
浅香が空港から俺とは別行動を取っている。たぶん、裕壱の所へ行ったのだろう。そろそろ夕食の時間か…俺は、携帯のメモリーを呼び出した。
ここまで来たかいがあったかは、あと数時間後にわかる。今、自分が遠足の前日の子供のように浮き立っているのを楽しんでいた。

「何、笑ってるんですか?」
浅香がキィを打つ手を止めてこっちを見ている。そんな探るような視線を送ってもダメだぞ。お前になど気づかれてたまるか。
「お前、渉くんが好きなんだろう」
「…えっ」
鳩が豆鉄砲をくらった、というのはこんな顔の事を言うんだろうな。
「なん、で…」
「悪いが、俺の方が人生経験がある」
考えれば単純だよ、浅香雅展くん。俺が沖縄に行くと言った時、即座にお前も一緒に行くと行って来た。その理由を考えればしごく簡単。裕壱と浅香は同じタイプだ。だからといって互いを庇いあう、なんて事をする筈は絶対に無い。だとすれば、あの言動の意味は、同行していた渉くん以外に無いだろう。浅香と出会った時、裕壱と同じものを感じながら何か足りないものを感じていた。それが、ここ数ヶ月、本来の自分を取り戻したように見えた。それが渉くんのお陰と考えてもおかしくない。
「同じ人間を好きになるなんて、やっぱり、お前ら、似てるよ」
笑いながら言ってやると浅香は苦笑しながら、俺には叶わないと微笑んだ。そりゃそうだろう、裕壱とは19年間も付き合ってきたんだ、年季が違う。お前と同じ人間をずっと見守り続けていたんだからな。
「だからといってお前と手を取り合って二人の恋路の邪魔をしようなんて思っていないからな。お前はお前で勝手にやってくれ」
「わかっていますよ、祥平さん」
「まずいな…」
「えっ…何が…?」
「…仕事より、こっちの方が楽しくなってきた」
「…祥平さん………」
脱力したように浅香が額に手をやる。たぶんお前も初めてなんだろう。自分に手が届かないものがあったと気づいたのは…何処までもお前達は似ているよ。だからか…お前を傍に置いているのは…いや、本当に傍にいて欲しいのは、裕壱、なのかもしれないな…
「なあ、俺ってブラコンだと思うか?」
浅香は、今度こそ立ち直れないと言った顔で、長い溜息をついた。

END