聖 夜



聖なる祝福を求め、両の手を合わせる。
天に願いを込めて人間は祈る。
では、天使は、誰に願いを請うのだろうか。
全知全能の神 ゼウスであろうか…
しかし、そのゼウスは、今―――
願いを乞う天使の声は、聞こえてはいない……

「ユダ!!」
「どうしたシン、そんなに息を切らせて…」
穏やかな蒼穹が広がる天界。風はどこまでも優しく、暖かく、すべての天使の上に平等にその優しさを与えていた。
「…あなたが…歩いているのを……見つけ…て……」
緩やかにシンの肩にかかる髪が、荒い息とともに揺れる…
「落ち着いて…呼吸を整えるのだ…話はそれからでもいいだろう…」
「…え…ええ……」
そう諭され自分がどんなに慌ててユダの後を追っていたのか、改めて自覚させられ、頬を紅く染めた。ゆっくりと呼吸を整える間、ユダは黙って隣に立っていた。体温を感じる距離にシンの息は、収まる術を無くしていた。
「…シン……?」
「あ…いえ……」
問われ、さらに頬の温度が上がる。
(…どうしよう…動悸が治まらない…っ)
夕べ…
そう、シンは思い出していた。
天空城での執務が終わり、休日を前に私邸へと向かっている途中、道端に咲いていた花に目を止め、触れた葉先に鋭さを感じた。危ないと手を離したとき…

『俺の出番は無しかな?』
背後からの声にシンは、弾かれたように振り向いた。
『ユダ!』
ユダの唇に宿りし、癒しの力。その温かい唇に何度か癒された事を思い出す。
『…意地悪な事をおっしゃいますね?』
心の中の動揺を隠し、柔らかな微笑みをその頬に浮かべる。
だが、そんな小手先の仕草などとうにユダに見抜かれてはいるのだろうが…
『私邸へ帰るのだろう。俺も共によいか?』
どうしてそれを…自分の行く先を知っているのかと問う前にユダがシンの髪を掻きあげる。シンの唇が開きかけたまま、動く事をやめる。感覚がユダの指先を追ってしまう…
『お前の執務室を訪れたらこちらへ向かったと聞いたものでな…』
『そう、ですか…』
ユダに先を促され、並んで歩く。シンが属する風が二人の間を擦り抜けて行く。ただ、その時間だけが愛しいと切に思う。互いの間に言葉の音がなくとも触れた肌から流れ込む感情だけで、分かり合える。そんな幻想にも似た想いが、シンを支配していた。
そして、ユダもまた、同じ想いであると…常緑の森を背に湖の辺の私邸が見えてくる。
『いつ来ても心落ち着く場所だ…』
肩に回された腕に少しだけ力が篭る。引き寄せられ、羽根のような口付けが落ちてくる。
『お前が隣に居る。だからなのだろうな…この心の平穏は…』
『……ユダ…』
『さあ、今夜は何が食べたい?リクエストがあるなら、聞いてやるぞ』 涼やかな笑い声が、シンの耳に心地よく届く。
(…あなたと共に食するのなら、どんな物でも私は…)
『お前はもっと食したほうがいい。強い力で抱き締めたら折れそうな細さだ…』
『………………っ!?』
戯れな言葉にシンは、再び鼓動を早める。もう、覚えてしまったユダの腕の強さ、温かさ…心地よさを……思い出す…


そのまま、ユダと夜を共にした。二人で過ごす時間は、いつも温かく、愛しい…と、同時に切ない時間だった。交わす言葉が、想いを募らせ、触れる指先が、想いを溢れさせる…身の内に潜む、淫らな欲望でさえ、ユダの前では、聖なる儀式になった。
心の鍵をひとつひとつ外していく。それは、決してシンにとって不快な事では無いのだ。むしろ求められている喜びに変わる。
ユダの指先が自分を変える、そう想うだけで、想いの涙が、流れ出す…
触れ合う時間だけは、二人だけの秘め事…

「…なんだ、今日は無口なのだな」
心を静めるために閉じた瞳は数刻前の記憶を甦らせただけであった。
「…はい」
どうしてこの人はいつもこうなのだろう、とシンは、ユダの顔を振り仰いだ。見上げる瞳にはいつも自分が映っている。包み込むように…掛けられる言葉は、凛として、胸に染み渡る。
そして、想う。
自分は、こんなにもユダが好きなのだと…
「…昨日…あなたに見つけてもらったので今日は私があなたを見つけたかったのです」
「そう、なのか?」
「今度は私が…」


まだ、二人だけの時間は続く。
まだ、今は、その時ではない…
地上で愛し合う二人が永久を誓い合う刻。
そんな人間の真似事をシンは、ユダと共にと、求めた。
地上の人間が、聖なる夜だと信じている刻に…
今だけは、そんな戯言に心を任せてみたいと、シンは、願った…
たったひとつだけの願いとして…

「ユダ…今夜も私の所へ来ませんか?」
「………シン……」
「あなたと過ごす時間が…欲しいのです…もっと……」
伏せた顔を上げ、真っ直ぐにユダの瞳に映る自分を見つめる。その瞳が、真っ直ぐに自分に向けられている事を確かめる為に…
「お前が望むなら、幾刻でも…」


優しい腕が、降りて来る。
白い翼と共に、シンとユダの上に舞い降りる…
聖なる夜
二人の絆を確かめ、深く繋ぐ為に
唇を交わす
二つの交わらざる肢体を混じわらせる為に
しんとした刻の中で
ただ、二人
その身体を激情に委ねる
やがて訪れる
運命に逆らうように…
……天よりの贈り物……
白き心を今、二人の為に…



END