静かな夜に…



 「んっ…」
伸ばした指先にある筈の温もりが感じられない。シンは慌てて瞳を開けた。すでにカーテンが開けられ、眩しすぎる朝の光が部屋を照らしていた。陽光に目を細め見やった先に素肌を晒したままのユダが白いカップを手に立っていた。黙して戸外を見ているその姿の美しさにシンは刻を忘れた。
あの腕が、あの指が…唇が、数刻前自身にもたらした変化を思い出す。知らず、体温が上昇を始める…そんな感情を振り切るように、微笑みを乗せた声音で愛する人の名を呼ぶ。
「…ユダ………」
風に運ばれ届いた想いは、ユダに笑顔をもたらす。
「起きたのか、シン」
柔らかく名を返され、頬を染める…
「…また、そうやって俯く…お前というヤツは…」
喉の奥に笑いを絡ませ、カップの中身を飲み干す。ついと、窓辺を離れ、ベッドに歩み寄る。額に掛かるシンの長い髪を掻きあげてやる。
「着替えて出掛ける支度しろ。もう、だいぶ陽が高い」
指摘され、自分が寝過ごしていた事に気づく。
「す、すみませんっ。今すぐ…」
今度は、羞恥に頬を赤らめるシンだった。
陽と一緒の水浴は、肢体のそこここに残る薄紅色の痣をいやおうなく自身の瞳に晒す。辿る指先が、すべてユダの温もりに掏り変わる。
「…ユダ」
愛されたという事実だけが、そこにあった。

昼の刻を過ぎた頃、二人は連れ立って下界に降りた。私服に着替え、神気を制御する揃いの指輪をして。
指輪―
通常、天界人は任務以外で降臨する場合、自身の神気を制御する。そうしなければ、稀に感覚の優れてる人間に悟られてしまう危険があるからだ。それは、身に着けるアクセサリーを象る場合が多い。ゴウはピアスを、レイはネックレス、ガイはバングル、などである。 そして、シンは指輪を持っている。それは、ユダから贈られたものなのである。銀細工の美しい指輪はシンの指を彩り、輝いていた。いや、その輝きは二人の想い、なのかもしれない。
「寒くないか?」
「…少し……」
「なら、もっと傍に寄るといい」
「…はい…」
三度、頬を染め俯くシンから視線を外さないまま、ユダが微かな笑い声を漏らす。
「…………?」
「今夜は無口なのだな…お前がこの地を望んだのではないのか?」
「ええ……」
二人並んで歩く下界は、夜の喧騒に包まれていた。そうして雑踏に紛れる様は地上人となんら変わらぬ姿。ユダの問いに多くは答えられぬまま、シンは天を振り仰いだ。その眼前を白い羽根の欠片にも似た雪が、舞っていた。開いた掌に舞い降りた天使は、儚く消えていった…

「ここか」
シンに導かれ辿りついた先は、小さな洋館。シンが地上の調査の為に用意していた館だ。軋む扉を開け、中へと進む。部屋には、アンティークな家具と大きな暖炉があった。
「お前らしいな…」
「…ありがとうございます。すぐに暖炉に火を入れます…」
慣れた仕草で薪を並べ、火を熾す。

『…明日の夜、どうか私と一緒に居てくださいませんか?』
『ん…?どうした…』
『明日だけはあなたと共にありたいのです…』
『…フッ…じゃぁ…このまま…明日の夜まで時間を潰すとするか…?』
悪戯な指がするりと下肢を撫でる。ぞくりと背中を走った痺れに身を硬くする。もう何度も睦みあい、昇り詰めたというのにシンの身体に再び、熱が点る…
『…ユ…ユダ…もう、これ以上は……』
『そうか…?俺にはそうは思えないがな…』
ゆっくりと欲を擡げたモノに触れ、唇の瑞に笑みを浮かべる。
『…ユダ……』
『…悪かった…話を聞こう』
シンの瞳が少しも揺らいでいない事を認めると両手を挙げてシンを解放した。

「ここがお前の我侭の理由か?」
「えっ…?」
いつの間にかコートを脱いだユダが後ろに立っていた。
「夕べ、俺の腕を拒んでまで望んだ事がここに俺と来る事だったのかと、聞いている…」
「…あ…………」
後ろから細い腰を引き寄せられ、頬に触れた冷たい唇…
「ええ、半分は…」
「半分?」
やんわりと腕を外すと「休んでいてください」とだけ言い残して部屋を出たシン。ほどなく淡いピンクのグラスに満たされたワインを手に戻ってきた。
「とりあえずは、冷えた身体を温めましょう」
眼鏡を外した顔が喩えようも無く優しく、微笑んだ。今夜は、共にありたいとユダを連れ、下界に降りたシン。心づくしの料理まで用意していた様は、思いつきなどでは無いのだろう。そう、きっと今日と言う日の事を書物で読み知った時から…
たまにはこんな時間もいいだろうと、ユダはシンからグラスを受け取った。グラスの触れ合う音が、二人の間で鳴り響く。
暖かい暖炉の前に足を投げ出し、たわいもない話に刻を過ごす。いつの間にか、窓の外には帳が降りている。そして、窓を叩く風の音も強さを増したようだ。
「風が……」
酔いに任せた身体で窓辺に寄る。雪が、絶え間なく、降っていた。風に翻弄され、舞い降りる先を見つけられないように、右へ左へ、揺れて…
「…まるで…今の私のようです…」
自嘲めいた言葉にユダも立ち上がる。
「この雪とお前が同じだと、言うのか」
「ええ…」
「…………」
「私は……あなたという風に惑わされています…いつも…あなたに触れられるたび…自分が自分で無くなるような感覚に…襲われています…」
「…シン……」
「いえ…それが不快、なのではありません。むしろ……」
想いを言葉にする事が怖くなったのか、シンはふいに口を噤む。
「…その先を…俺は、聞きたい」
「…………………………」
窓に映るユダの瞳を正面から見つめ、告白する。
「…あなたを……愛しています…この世界の誰より……」
「…………」
「だから…怖い…あなたが居ない世界など考えられない…私のすべてがあなたに囚われている…もう…何処にも…行けないほど…」
「…シン…………」
背中から抱きすくめられ肢体が震える。手の平が首筋を滑り下りる。
「…そのままでいい…俺に囚われる事が不快でないのなら…俺は…お前を縛り続ける…」
ユダの告白にシンの心が泣いていた。 いいのだ、自分はこのままで…ユダに囚われたままの自分で…
そして白いリボンの小箱をユダに差し出す。
「今夜、地上の恋人達はこのショコラで愛を交わすそうです…」
そんな戯言を自分と交わしたいと願ったシンの心が嬉しいと思う、ユダ。 そのまま、包みを開け、細い指先がシュガーヌード色の粒を捕らえる。伝わった体温が粒の表面を溶かしていく。ゆっくりとシンの口元まで運んだショコラを唇に押し当てる。促すようにもう一本の指が、唇をなぞる…甘く妖しい衝動が背中を這う…そのまま、ユダの指を受け入れる。溶けて濡れたショコラが口腔を滑る…
「…甘い……」
優しい口づけが残酷なまでに繰り返される。もはや言葉は二人の間に存在しない。互いの吐息だけがすべてで…快楽に翻弄され、放った声だけが、真実と。
床に散らばったショコラが暖炉の暖かさに形を変えていく。
炎が薪を侵してゆく、乾いた音が、響く。そして、微かな衣擦れの音…

想いが、

揺れて、悲鳴をあげる。

切ないまでの想いは、

濡れて、色を変える。

不確かなモノに想いを託さないで…

誓って欲しい

あなた自身に

そして、

たった一つの真実を

この口づけと共に…



END