シュガーヌード色の想い




「なんだって、こんなに人がいるんだ…」
水曜の夕方、街へ出た渉は当てが外れた人ごみに辟易していた。
(…やっぱり、花鈴について来てもらったほうがよかったかな…)
今、渉の目の前のひろがっている光景。来る2月14日の為、チョコレートを物色している女性達の列。
場違いな感覚に足を止めたまま動けない少年の名前は、藤井渉。 緑陽高校2年、只今、秘密の恋愛中。
そのお相手は、同じ高校の3年、架月裕壱。そう、秘密の訳は、『同性』だからだ。偶然が重なり、想いが通じたのは、半年前。
そして、初めてのバレンタインが目の前に迫っていた。 チョコで想いを伝えるなんて、今更な気がしていた渉だったが、連日、視覚に入る情景が、ここに足を向かわせていた。
「…なんだかなぁ…こん中に割り込む勇気、やっぱ、出ねぇ…」
くじけそうになり、店に背を向けたところで、見知った顔と出くわした。
「あら?渉くんじゃない」
長いストレートの髪を掻きあげながら、優しく微笑んでいるのは、瞳子。裕壱の従姉妹である。秘密の恋を知る数少ないうちの一人である。
「もしかして…チョコレートを買いに来たの?」
渉が、挨拶をする前に図星をつかれた。それはそうである。色めきたつ女性達をうらやましそうに見つめていた渉である。渉の意図など一目瞭然、だった。
「……はい」
素直に認めると頬が熱くなった。
「瞳子さんもチョコを?」
「ええ、もっとも私のは、義理チョコだけどね?」
悪戯っぽくウィンクした表情が、裕壱と血の繋がりがある事を思わせた。裕壱の家族。今は秘密でもいつかは…そんな風に思うとき、一番に思い浮かぶのが、架月祥平。裕壱の兄である。彼は、秘密の恋の非賛同者である。いつか、あの人に二人の事を認めてもらわなければならない。二人がずっと一緒に居る為には…
「渉くん…?」
黙り込んでしまった渉に心配そうに声を掛ける。それを勘違いした瞳子が尋ねた。
「もしかして…買いたいけど、買えないんじゃ…」
これもまた、一目瞭然なのだが…一部分、瞳子の当たりである。
「…はい、実は…い、今更チョコとかっておかしいかなって…っというか、男同士でチョコってもの、変、かなっとか…」
言葉に詰まりながら、話しているうちに、やっぱり、諦めようと決心した時、
「私が、選んであげましょうか?」
渡りに船とは、この事かもしれないと思った。渉は躊躇無く、瞳子の言葉に頷いていた。

光沢のある茶色の包み紙に金色のリボン。片手に乗るほどの箱が、渉の目の前に置かれていた。ようやく手にしたチョコなのに何故か渉は浮かない顔をしている。おまけに絶望的な大きな溜息をつく始末。
瞳子と一緒に入った店の硝子のショーケースの中のチョコレート。そのディスプレイに目を奪われ、気後れしていた渉に差し出された箱には『トイスチャー製シャンパントリュフ』と書かれていた。一口大のチョコを白いパウダーシュガーが包み、その中に隠れている味を想像させる、綺麗な作りになっていた。このチョコを渡したら裕壱はどんな顔をするんだろう、喜んでくれるだろうか…そんな想いが、瞬間、渉の脳裏を走った。
「ありがとうございます、とっても綺麗なチョコだ…これにします…」
帰り道の途中、ふいに裕壱は去年までのバレンタインをどう過ごしていたのか、知りたくなった。
「瞳子さん、去年までは架月はもちろんチョコをもらっていたんですよね」
「ええ。そりゃもう、たくさんのチョコをね」
やっぱりな…と、渉は納得した。話をそこで終わらせていたら、今、渉が溜息をつく理由など無かった筈なのだ。
「あの架月裕壱、ですからね。で、もらったチョコは、どうしてたんですか?まさか、律儀に全部食べていたとか…」
普通の男ならバレンタインは心落ち着かない日である。意中の人がいる人も居ない人にとっても待ち望んだイベントの筈。だが、相手は、アノ、架月裕壱、である。好奇心も手伝ってもっと話を引き出そうと言葉を続けてしまったのだ。
「さすがにそれは、無理でしょうね。だって、ちょっとした芸能人並の数だったもの。真剣に贈ってくれた人には悪かったけど、捨てるのも勿体無いとかでよく私や貴子ちゃんが貰っていたわ。あの子、貰ったチョコを食べた事なんて無かったんじゃないのかしら」
「食べた事が無い、って…」
もしかして、甘いものが苦手、とか…そういう可能性もあったのだ。普段の裕壱からは、そんな素振りは感じられなかったが…正面きって「甘いものは嫌いだ」と宣言されたわけでも無い。それとなく確かめる事は出来た筈だ。なのに自分の想いだけでチョコを買ってしまった。慌てて食べなかった理由を瞳子に尋ねた。
「…別にチョコが嫌いという訳じゃ無いのよ…」
…なんだ、嫌いじゃないのか…安心したと思った時、
「…バレンタインなんて日本のお菓子業界の企みじゃないか。それにまんまと乗せられてバカ高いチョコを送ってくるなんて信じられない、そう、言ってたのよ…」
「…架月、ですねぇ……」
「ええ…チョコに罪は無いのにねぇ…ま、食べてしまったら贈ってきた子の想いを受け取ってしまう事になるから、なんて事も言って…」
渉は『まんまと乗せられて』その一言で、目の前が真っ暗になるのを感じていた。ゆえに、その後の瞳子の言葉は耳に入るはずも無く…
「はぁぁ…どうしようか…このチョコレート…」
所在なさげな机の上のチョコが、とてつもなく重いモノに見えてきた。
「…3粒で1050円もしたんだぞ…捨てるのはもったいないし、一人で食べてしまうのもバカみたいだし…」
どちらにしても行き場が無くなってしまったのは事実である。


迷い続けているうちにバレンタイン当日がやってきてしまった。いつものように学校から少し離れた場所で待ち合わせた二人は肩を並べて歩き出した。
「渉、今日、遅くなっても大丈夫か?」
幾分、言いにくそうに裕壱が尋ねてくる。もとより、渉には断る理由は無く、了解の返事をした。今日は、横浜まで出掛けないかと言う。何気ない言い方に特別の意味を感じる事は出来なかったが、最近、裕壱も卒業の準備とかで二人きりの時間が無かったので、かえって嬉しい提案だった。何処に行こうか、夕食ぐらい食べてこようか、そうやって話している間、恋人同士が、連れ立っていくのを何組か見送った。
(…特別な日、だもんな…あの娘はこれからチョコを渡すんだろうか…)
女の子が手にしている紙袋の中に軽く嫉妬した渉。あれから学生鞄に入れっぱなしになっていた小箱の事を思った。きっと裕壱はバレンタインにいい思い出は無いに違いない「まんまと乗せられて」の言葉に激しく動揺はしたものの、少しの希望を持ちたくてあの後、瞳子を問い詰めていた。
バレンタイン当日は、当然のごとく、その数日前から裕壱宛のチョコがあの手この手で贈られて来たという。時には、どうやって置いたのか、裕壱の部屋のベランダに置かれていた事もあったという。あやうく、警察沙汰になるところだったと。他にも差出人の名前も書かず、いかにも手作りで「愛を込めて」などというメッセージ入りのケーキが、届いたり…そういった処置に困るようなチョコ達に裕壱は静かに怒っていたと言う。
対外的には優等生で通っていた裕壱である、それでも可能な限り、そのひとつひとつに丁寧な返事をしてたとも。もちろん、すべて、断りの返事だったらしいが…
そんな事を聞いてしまったら、もう、裕壱はバレンタインなど忌々しいものでしかないと思うしかない。だけど…もしかして、自分からだったら喜んでくれるのでは…堂々巡りの思考が渉を悩ませていた。
裕壱には珍しく、電車の中でも時折笑顔を見せながら話し掛けてくる。そんな自分だけに向けられる笑顔がまぶしくて渉はずっと見ていたい衝動に駆られた。
(…この笑顔が少しでも曇るような事はしたくない。このチョコは自分の想いの為に買った事にしよう。うん、そうしよう)
決めてしまってからは、渉も積極的に話し始めた。横浜までのちょっとしたデートなんだから、楽しまなきゃと…
海に太陽が沈み始めた頃、二人は、みなとみらいに着いた。駅から見える、横浜の港に象徴的な半月型のホテルが夕陽に紅く縁取られている。
「海のほうへ行ってみよう」
歩く歩道を並んで歩きながら、ビルの間から見えるキラキラ輝く海面を見つめる。擦れ違うのは、肩を抱いた恋人同士だけ。俺達も恋人なんだけど、さすがに肩を抱いたりは出来ないなぁ、諦めかけたが、どうしても裕壱に触れたくなった。じゃあ、せめて…と、そっと伸ばした指先が、温かい感触に包まれる。
「…架月……」
「少しだけ…いいだろ?」
(同じ事を考えていたんだ…)
渉は、破顔した。


「さすがに恋人同士だらけだな」
自分が連れてきたというのに裕壱は苦笑しながら、渉を振り向く。
「もう少し、奥へ行こう」
夕闇に包まれた横浜を触れるか触れない距離を保ちながら、歩いていく。 適当な場所を見つけて座る二人。前方に何組か寄り添った影が見える。それでも会話が聞こえる距離ではない。裕壱は、ゆっくりと辺りを見回して、
「これ…」
無造作に差し出された箱。渉は見覚えがあった。
「…えっ…?何…?」
思い掛けない裕壱の行動に渉は一瞬、身体を強張らせてしまった。
「何って…まいったな…そんなに以外そうな顔、されるとは思っていなかった…」
違う、と渉は言いたかったのだが、今、自分の手の中にあるのは、紛れも無い「チョコレート」だ。まだ、中身を確かめないうちに何故わかったのか、その理由は、その光沢のある茶色の包み紙は鞄の中の小箱と同じだったからである。そして、今日は、バレンタイン当日である。という事はこの手の中の箱が意味する事は…
「架月…これって……」
「…なんだよ…いやだった、のか…」
渉が言葉を探しているうちに裕壱は拗ねたようにそっぽを向いてしまった。よっぽどバツが悪かったのだろう。所在なさげに草を千切り始める。
「ち、違うんだっ。あんまり…あんまり、驚いたから…」
「やっぱ…キャラじゃなかったよな…」
裕壱は、失態を犯してしまったと、溜息をついた。
「違うんだよ、架月。俺が驚いたのは…」
渉は、鞄の中から、行き場所を得た小箱を取り出した。
「架月、受け取ってくれるか?」
一瞬、付き返されたのかと思ったのか、裕壱の瞳に戸惑いが浮かんだ。しかし、自分が贈ったものはしっかりと渉の手の中にある事を確認すると、
「渉…もしかして……」
「うん、たぶん、そう…」
二人は、同じ事を考えていたのだ。二人で初めて迎える恋人達の日を普通の恋人のように過ごしたいと。そして、互いを思いながら選んだのは、同じチョコレート。
「…俺たちって…」
「…俺たちってさ…」
二人はどちらからとも無く、顔を寄せていた、そして、羽根のような軽いキス。
「誰かに…見られるよ……」
「いいさ…ここは、東京じゃない…」
裕壱の腕が、渉の肩を優しく抱いた…
「今すぐ…お前が欲しい…」
耳元で淫らに囁かれる言葉に身の内の熱が上昇する。渉もまた、裕壱の温度に包まれたい、そう、思った。
距離を縮めた二人の間で、二つの箱が微かな音を立てて、触れ合った。
「これ…食べさせてやろうか…」
「…え…?」
「そしたら…もっと甘いキスが出来そうだ……」



終わり