「互いの距離」




「すっぽかされたか…」
独り座った喫茶店のテーブル。
窓から差し込む西日が、智宏の横顔を照らしている。色素の薄い髪が陽に透けて金色に見える。誰もいない向かいの席を見つめ、盛大な溜息をつく。三年前、同期入社した遠藤雪乃に一目惚れ。精一杯の押しでようやく付き合い始めたのが去年の夏期休暇前。お互い、うまくいっていると思っていた。いや、そう思っていたのは智宏だけだったのかもしれない。
「俺って、楽観主義すぎかぁ?」
智宏の口から今日何度目になるのかわからない溜息が漏れた。恋人達の祭典クリスマス。
『仕事が入ったの』
見え見えの嘘でドタキャン。予感はしていた。自分はそれほど鈍感じゃない、そう自己弁護しても心に開いた穴は埋まらない。だけど、今日は、智宏の二十三回目の誕生日だ。最後の期待を賭けてもいいかと強引に誘った。勝率三割も無いだろう賭けに…
そして、予想通りの完敗……約束の時間はとっくに過ぎている。追加オーダーが、恥ずかしくなるくらいに。なのに、席を立てない。
「…俺って、女々しい性格ぅ?」
…いい加減、自己評価のネタも切れた頃、ふいに目の前が白く光った。
「……ッ!?」
光の残像が残る瞳を二つ向こうの席からこちらを見ている人間に向ける。何か機械的な影が見える。西日と白光に焼かれた両目が、ジンジンしていた。不覚にも涙まで滲んでくる。
「……………っ」
慌てて拳で拭う。タガが外れて…そのまま泣き出してしまいそうだったから…
「……んだよっ」
思い切り不機嫌モードで怒鳴る。そこへ輪郭のボヤケタ人間が、接近してくる。
女か?
男か?
「すまない……目を焼いてしまったようだね」
声は男のモノ。
智宏は、まだ霞む両目で下から思いっきり、睨めつけてやった。もちろん、理不尽な敵意を込めてだ。
「……すまない」
男があまりにあっさり謝ったので拍子抜けし、思わず、
「…別に………」
これまたあっさり、不満を引っ込めてしまった。
「…あまりに、君の横顔が綺麗だったのでね……」
男は聞きもしないのに手にしたカメラを智宏の目の前に差し出し、智宏を襲った光の原因を示し、その理由まで告げる。
「はぁぁ〜〜!?」
拍子抜けの2連発………
(き、綺麗だぁ〜〜??…何言ってんだ?こいつ……)
変人嗜好の理由に二の句が継げなくなり、伝票を持って立ち上がった。これ以上係わり合いになる事は無いのだ。
「後で連絡もらえる?」
しかし、男はそんな智宏の心情など我関せずで一枚の名刺を智宏の胸ポケットに強引に滑り込ませた。ふいに縮まった男との距離に智宏は、思わず、身構えてしまった。何をされる、という理由(わけ)でもないというのに…間近で見た男の顔は、整っている、と言って良い。少し癖のある前髪が、男の動きに合わせて揺れている。白いシャツが、嫌味なほど似合っていた。いいモノ、なのだろうか?光沢のある素材が、西日に輝いている…妙な観察をし始めてしまった智宏の鼻腔に飛び込んで来た香り…シャンプーか…?男のシャンプーの香りを嗅いだからといって、ドキリとするなんて、ありえないと、たった今感じた感情を否定した。
「あれ?もしかして、僕に見惚れてる?」
「………………ッ!?」
(…一瞬でも『いい男だ』なんて思った俺が馬鹿だった…)
「じゃ…」
智宏は、今度こそ喫茶店の扉を出た。
「………あ」
後ろで男が、何か言いたげに手を伸ばしかけたのを視線の端で捕らえながらも無視を決め込んだ。これが、失恋直後の佐伯智宏と如月僚一との出会いだった。
(被写体だったら綺麗なおねえさんでも撮ってろってのっ。何好き好んで男なんて、撮ってんだよっっ。)
智宏の怒りの矛先は、さっき逢ったばかりの男にすべて向けられていた。五分前までは、約束をすっぽかした雪乃に恋焦がれていたというに…悔しさと怒りが入り混じった複雑な感情のまま、視線を向けた先、夕日がショーウィンドゥに反射して目を射った。
「………っつ」
その光が、またさっきの出来事を思い出させる。
「……んだよ……あんな変人っ」
やっぱり、不快だっ、と、蹴っ飛ばした空き缶が、車道に転がり落ちた。カラカラと心地よい音が、歩道に流れる。
「おいおい、空き缶は、ゴミ箱だろ?」
転がった空き缶を拾い上げ、常識人ぶった言葉を投げかけたのは、
一ノ瀬和磨。智宏の隣の住人だ。といっても、会社の寮なのだから、同僚、という表現が正しいかもしれない。
「…やっぱり、いたな……」
「うっ………な、なんだよ……」
雪乃と同じく、同期入社の一ノ瀬とは、何故か気が合い、田舎の両親にも言えない事まで相談する仲になっていたもちろん、今日の雪乃との事も知っている。
「…ん?どれどれ……目は、赤くないなぁ?」
「あぁっ?なんだよぉっ。俺が、泣いてたとでも言いたいのかっ」
からかうような視線に語気を強め詰め寄ったが、いつもの事と、軽く受け流す、一ノ瀬。
「ところで、あいつは、知り合い?」
指差した向こうにあの男が性懲りもなく、追いかけて来ていた。
「あのヤロー…」
「智宏…?」
あからさまに敵意を出してしまってから、ヤバイと口をつぐんだ。そのまま、歩き出した智宏に一ノ瀬が、声を掛ける。
「行くぞ…」
「へっ?何処へ……?」
「誕生日に男と一緒なんて冴えないと思うだろうが…付き合うぜ?…自棄酒…」
「……一ノ瀬…」
そう言って、破顔した一ノ瀬を『いいヤツだ』改めて納得する智宏だった。それは、春一番が二人の間を擦り抜けて行った、夕暮れの事……二人の距離を確かめるように風が、吹いていた……




「………はぁぁ…付き合うなんて…言わなきゃよかった……」
一ノ瀬の目の前には、すでに目の焦点の合わなくなった智宏が、ビールが空だぞっ俺様の言う事が聞けないのかと、騒ぎ立てている。
「…こいつ、こんなに酒癖悪かったかぁ?」
溜息混じりに要望に答えるべく、夜中のコンビニに出掛ける事にした。自分も酔わなきゃやってらんないと、二人分の酒を買って寮に戻る。しかし……
「……寝るんなら、俺に買出しさせんな…っ」
ご丁寧にベッドを占領して、智宏は寝息を立てていた。そして、その頬が少しだけ、濡れているのに気づく。
「…ったく……なんで女は、お前の良さをわかんねぇのかな…」
みっとも無いなぁと、外気に冷えた指先で拭ってやる。その冷たさに顔を歪めた智宏だったが、起きる気配は無い。
「智宏……」
智宏はいわゆる『いい人』体質らしく、物足りなさを感じた女達は、最後には、智宏から離れていった。そんな話を聞かされ、恋愛に臆病になっていた智宏を後押ししたのは、一ノ瀬だ。社会人になったんだ、女達だって、男を見る目は養っている筈だ。雪乃に想いを寄せているのなら、告白してみろよ、と。
「…お前にちゃんと恋人が出来なきゃ、俺が困るんだよ…」
寝入っている智宏の額を指ではじく。
「……馬鹿だな…………」
誰に言うとでも無く、そう呟き、少し、汗をかいてしまった缶ビールのプルトップを引いて、何かを流し込むように、一気に中身を飲み干した。

月曜日の会社は、忙しい。智宏もまた、仕事に没頭せずにはいられなかった。しかしそれは、智宏にとってはとても好都合な事だった。時折、雪乃が智宏を見ている事に気づいたが、優しく微笑みを返す事で終わりにしようとしていた。
(…もう、いいよ。君が幸せになれるんだったら、俺は、潔く終わりにするさ…)
後で、メールを入れておこう、智宏はそう、思った。雪乃の心を軽くしてあげようと。
(だから『いい人』なのかな…)
自嘲が智宏の心を掠めた。でも、自分はそうする事が最善と思っているのだからと、キィボードを少し強く叩いた。
智宏の勤めている「Great Capacity」は、街の情報誌を発行している。日々、クライアントに頭を下げ、広告を取るのが智宏の仕事。人当たりの良い智宏の営業成績は常に上位。それゆえ、月曜日のデスクはラッシュの車内のように情報が乱立している。
(…これが、いいよな……余計な事を考えなくていい…)
まだ新しい記憶の金曜日のことを思い出しそうになるが、デスクの電話は容赦なく、鳴り続ける。
「はい、営業部佐伯です」
智宏は、仕事に没頭する事を決め込んだ。あっけないほど一日は過ぎる。いつものように寮へ帰る。しかし、何故か心がざわめいていた。それは失恋の痛手ではなく、何かが始まる予感、というのだろうか。不思議な高揚感が智宏の心を覆っていた。
(一ノ瀬のお陰かな…)
土曜の朝、二日酔いでガンガンする頭を抱えながら目覚めた智宏は、ベッドに凭れたまま寝ている一ノ瀬を見つめた。一晩中傍にいてくれたのだろう、付けっ放しになっていた電気スタンドを消す。何にも言わずに自分の愚痴を聞いてくれた一ノ瀬に感謝した。今日一日、智宏の手が空きそうになると何かと用事を言いつけた一ノ瀬。それが彼なりの優しさ、なのだろう。忙しさに翻弄される内に一日が無事に終わったのだから。
(お陰で喫茶店での惨めな思いを思い出さなかったな…)
『あまりに、君の横顔が綺麗だったのでね』
ふいに名前も知らない変態男の言葉が甦ってきた。
「いやな事…思い出した…」
寮の階段を一気に駆け上がり、部屋へ滑り込んだ。まだ、日が落ちると肌寒いほどの気温になってしまう。エアコンの暖房のスイッチを入れ、薬缶でお湯を沸かす。ネクタイを緩めながら壁のハンガーを手に取った。その時、TVの上に置きっぱなしになっていたあの名刺が視界に入った。思い出せば不快な出来事でしか無いのにどうしてこの名刺を捨ててしまわなかったのかと、智宏は自分に腹を立てた。待ち人の来ない喫茶店の席に座り、自分自身の情けなさに泣きそうになっていたあの時間。相手を責め、自分を責めて、ぐちゃぐちゃになった感情の自分をあの男は『綺麗だ』の一言にカメラの中に封じ込めた。
「…人権侵害だっ。肖像権の侵害だっ」
智宏は『スタジオ Silent sign 如月僚一』と書かれた名刺を握り締め、ネガを取り返すと心に決めた。改めてそのスタジオの住所を見る。既視感?……
「…れ?これって……俺の会社の…隣……」
智宏は、何か策略めいたものを感じた。
「こいつ、何者だ?」
不信感は妙な闘志に変わり、明朝が決戦だっとばかりに、鼻息も荒く、バスルームの扉を開けた。暫く、頭上から降り注ぐシャワーを感じていた。その心地よさに目を閉じながら、思ったより精神的に疲労している事を自覚する。狭いバスルームが水音で溢れる。頬を伝う水滴が涙に極似していた。でも、それは本物の涙だったのかもしれない…


次の朝、まだ誰も出社していない自分のオフィスから確認した如月の事務所は、思いもよらぬ場所にあった。
「…俺のデスクの真向かい……」
ふいに光が、瞳を射る…
(…同じだ……あの時と……)
光が向かって来た方向に如月の視線があった。カメラを手にヒラヒラ手を振っている。
「………あいつ………っ」
思えば変だった。初対面の男をファインダーに収めて平然と『綺麗だから』と、言い切った大胆さ。普通に常識ある大人ならしない行為だ。智宏を見知った上での事だとすれば、合点がいく。
「くそぉ……まんまと、アイツの手に乗るところだったぜ…」
夕べの考えは却下だ、と智宏は思った。ネガを返してくれ、なんて言って乗り込んだら何をされるかわかったもんじゃない。やはり、無視が一番得策だと、思い直した。
「さぁて、お仕事、お仕事…」
智宏の姿が消えたビルの真向かいで、如月が余裕の笑みを浮かべていた。

すぐに朝の社内は、地獄のような忙しさに向かって急発進し始めた。
智宏が思いを巡らせている内に大半の社員は出社していた。一ノ瀬も鳴り続ける電話の応対に追われていた。
(…しまった…俺もやんなきゃ……)
取材してきたネタをワードに立ち上げ、見栄えのいいコメントをつける。最後に自分の名前を入力して終了。その作業を何度か繰り返して、やっと午前の仕事が、終わる。時計を見るとすでに12時を回っている。いくら忙しくても食べる時間には食べる、これが、智宏流の健康管理だ。
「おい、智宏。終わったんなら、メシ、行くか?」
智宏がパソコン画面から顔を上げるのを待っていたかのように一ノ瀬が声を掛けてくる。
「ああ」
いつもながらいいタイミングで声を掛けやがると、思った。財布をズボンのポケットにしまい込み、一ノ瀬の後を追う。久々に牛丼が食べたいな、と思いながら。
「締め切りには間に合いそうか?」
「…一ノ瀬…せっかくの飯がまずくなるような事言うなよ」
智宏の希望どおり、今日の昼食は牛丼。口いっぱいに頬張りながら、抗議した。編集の仕事なんて締め切りと同棲しているもんだ、と、一ノ瀬が口癖のように言っていることじゃないか…心の中で、抗議を続けながら、ご飯をかき込む。
「…もう、大丈夫そうだな…」
「え……っ」
ふいに、箸を置いた一ノ瀬が、ほっとしたような声を出す。
「…大丈夫、って…」
ああ、雪乃さんの事か…と、納得する。そう言えば失恋したというのに、今の智宏の心の中には、痛手みたいなものは欠けらも無かった。
「…お前のお陰だよ……」
一瞬、喫茶店の無礼な男の顔が浮かんだが、即効否定して、一ノ瀬の目を見て、微笑んだ。ふと、一ノ瀬が頬を赤くしたように見えた。不審気に見返すと、慌てて、視線を逸らす。
「…お……俺は、何もしちゃいないさ」
そう言いながら智宏の髪を掻きまわした一ノ瀬の手は、いつもと同じだった。
(…俺の気のせいか?)
それでも一ノ瀬を見続けた智宏は、やはり、頬が赤いと確認する。
ふと…『綺麗だったから』如月に言った言葉が、蘇る。
(綺麗…そういう意味では、一ノ瀬も綺麗な顔をしているよな…この前は社長秘書に声を掛けられた、なんて事も言ってたし…レベル、高いよな…髪は、羨ましいくらいの黒髪だし、均等の取れた目鼻立ちの配置は、モデルでもやれそうだぜ…近視だからって掛けてる眼鏡がまた、いいんだよな…もともと甘い顔に理知的、って感じも混ざって、ホント、いい感じ……)
智宏の無遠慮な視線に耐えかねて、一ノ瀬が、振り向く。
「…おい……ご飯、零れてる……」
言われて気づいたテーブルの上には、口に運んだ筈のご飯が、そこここに落ちていた。
「………あ………」
「ったく……何を見てんだよ…ヤローの顔見て何か面白いのか?」
智宏の前のご飯を拾いながら、仕方の無いヤツだと、しつこいくらい文句を言う。
「…アレ?もしかして、一ノ瀬、照れてる…?」
「…………!?……バ……ッ」
一ノ瀬は今までに見た事が無いような狼狽ぶりで、椅子から立ち上がった。見上げた顔は、あの日の夕焼けに染まった顔のように赤かい。
「…一ノ瀬………?」
「…さ、先に行ってるからなっ…馬鹿な事、言ってんじゃねぇよ……」
最後の言葉が消え入りそうになりながら、一ノ瀬は、伝票を手に店を出て行ってしまった。
「なんだよ……アイツ…」
一ノ瀬の態度に何故か、智宏の頬も熱を持ち始めていた。閉まってしまった自動ドアを見つめながら、ふいに自分の中に沸きあがった感情を必死に押し戻そうとした…



「やぁ…」
その日の退社時間、何故か余計な残業を引き受けた一ノ瀬を残して、独り階下に降りた。今夜の食事はどうしようかなどと取り留めない考えを巡らせていた智宏の耳に届いた声。
「……如月僚一……」
「…アレ?名前、覚えてくれたんだ。光栄だね?」
少し、首を傾けて、クスッっと微笑んだ顔が、最初の印象を壊した。
(…んだよ…コイツ…以外と子供っぽい顔、すんじゃないか……)
しかし、こんな変態野郎の顔なんて見たくもない、とあさっての方に視線を向ける。そんなのにはお構いなしに智宏を誘う、如月。
「今朝、窓越しに目があったから、てっきり僕の所に来てくれると思っていたのに、待てど暮らせど君が現れないから、押し掛けちゃったよ」
「俺、変態の知り合い、持ちたく無いですから…」
視線を外したまま、きっぱりと拒否した。また、クスクス笑う声に仕方なく、如月に視線を戻す。今度は、肩を小刻みに震わせながら、笑っている。何がそんなに面白いのかと、ますます、不機嫌になる。だが、如月の口から出た言葉は、取っておきの口説き文句。
「…感情を素直に出せるって、いいな…うん、そういうのは、好きだ…」
「…………………っ」
目の前の礼儀知らずな男は、何を言っているのだろう、今の今までコンプレックスだった自分の性格。他人から少しは、ポーカーフェイスってもんを覚えろよ、あなたは、自分の気持ち、表に出しすぎるよ、と非難される事はあってもそれが、いい事だと言われた事など記憶にある限り、無い。
「一緒に食事でもどう?」
(……なんだよ……コイツ、訳、わかんねぇヤツ…)

『じゃあ、明日10時に、スタジオで』
夜も遅くなって戻った部屋で、別れ際の如月との約束を考えていた。値段の書いていないメニューがある店で、二人で食事をした。左右に並べられたフォークやナイフにいったい何をどうしたらいいのかと、緊張しまっていた智宏に、ルールなんて、ないんだよ、君の好きなように使ったらいい、とまた、あの笑顔を見せる。
不意打ちのように見せる如月の笑顔に不覚にもドキドキしてしまうなんて、智宏は自分の感情が、理解出来なくなっていた。
「相手は、男だぞ…?平気で同性に向かって『綺麗だ』なんて言っちゃう変態だぞ?」
目の前の皿の乗っていた食材が何なのか、どんな味がしていたのか…思い出せなかった。
如月は、食事の間ずっと、智宏の目を見つめたまま、口説き続けた。
この夏の個展にぜひ、智宏をモデルに使いたいと言うのが、如月の口説き文句だ。去年の秋、帰り支度をしていたスタジオの窓に光が差し込んで、思わず光の方向に目を向けた。そこには、向かいのビルの窓にもたれる智宏がいたという。光が発した先は、胸のネームプレートだったらしい。落ちかけた陽に照らされた左胸が光っていたというのだから。
その時、どうしてそんな場所にいたのか、智宏の記憶には無いが、如月は次の瞬間、夢中になってシャッターを切っていたという。
その時の写真を見せられ、そこに写る自分が、信じられなかった。夕日に染まった自分は、何かを待っている、そんな顔で、切なげに前を見ていた。でも、その目には何も映っていない、その目に映るモノを探しているようだった、如月はそう言った。
『君が探しているモノを見つけてみないか?』
「俺が探しているモノ…?」
十八歳で東京に出て、好きな出版の仕事に就けた。収入もまあまあ。実家の両親も健在だ。友達だって、そこそこいる。恋だって…
「そこそこしてるさ…」
結果が出ないだけで…また、悪い癖が出た。すぐに自分を卑下してしまうこと。でも、それだって最近は、少なくなって…
「俺が探してるもんってなんなんだよ…わかった風な事、言うなよなっ」
突然現れて、理由のわからない事ばかり言われて、おまけに自分の探しているモノを見つけてみないか?絶対、常人じゃないな、智宏は、あくまで、如月を変態扱いする事に決めた。
「俺は現在のままでなんにも足りないモノなんて無いんだ。赤の他人に妙な事、これ以上言わせてたまるもんかッ」
これ以上、妙な真似をされないように如月の申し出を受けてみようと思った。自分を撮る事で足りないものなんて何もないんだと、わからせてやる為に。
「…明日……か…」

静かに流れているクラッシック、照明の落とされた部屋、見たことも無い機材。その中に溶け込んで撮影の準備をしている如月。握った手の平に冷たい汗が流れ始めた。今までの写真は、偶然の産物じゃないか?不安が、智宏の心を過る、自分をモデルに個展なんて……そんな事、博打みたいなもんじゃないか。ますます胸に不安が押し寄せる。冷や汗どころじゃない、心臓までが、止まりそうなくらい早い。夕べの決意は何処へやら。現実は、散々な状況。
「……はい、飲んで」
いつの間に用意したのだろう、目の前に香りのいいコーヒーが差し出された。
「緊張してるでしょ?とりあえず、これを……」
渡された白い磁器のカップの中には、たっぷりミルクの入った甘いコーヒーが入っていた。一口ごとに緊張が琥珀色の液体に溶け込んでいくようだった。
「大丈夫…?」
如月の声音は何処までも優しく、智宏を先へと促していった。
「今日は、リハーサルだから、そんなに緊張しなくていいよ?ゆっくり話をしながらもっと、僕の事をわかってもらう為に呼んだんだから」
撮影の準備は、もしもの為だからと、智宏を白い壁の前に置かれた木造の椅子に座らせた。
(…自分をわかってもらう為?変態の気持ちなんて一生理解出来ねぇよっ)
心の中で毒づく。
スタジオの中は優しいクラッシックの曲で満たされていた。ヴァイオリンの心地よい音色とコーヒーの香りの中で何気ない会話が始まった。会社の事、好きな食べ物、最近お気に入りのアーティスト。学生時代の失敗談……なんだか、会社の面接を受けている気分だよと苦笑した。智宏を白い光の中に置いたまま、向かい側からただ、見ているだけの如月。何をしようとするでもなく、他愛の無い会話。いつの間にか自分が笑っている事に気づいた、智宏。今なら理由を聞くことが出来るかもしれない、あの日、喫茶店で無遠慮なファインダーを向けた事を。
「なぁ…あんた、いつからあそこに居たんだ?」
唐突だったろう質問に用意していたのかと思う速さと正確さで答えを示した。
「君が入ってきた時、私はもうそこに居た。かなり緊張してるってオーラがぷんぷんしているヤツが入ってきたな、って思って見ていたんだ」
「…いつも…あんな、なのか?」
「そうだね…人間観察は俺の趣味みたいなもんだから」
「ふぅん…で、俺に断りも無く、シャッターを切ったのは?」
「初めは君だってわからなかったんだ…それぐらい窓越しに見かけた君と印象が違っていたからね。人待ち顔なのは一目見てわかった」
「そんなに物欲しそうな顔してたか?俺…」
「…違うよ…なんて言ったらいいんだろう。期待と不安が交互に君を支配して、それはもう見ていて飽きないほど君の心が顔に表れていた」
「見ていて飽きない…」
「そう、本当に気持ちが素直に表情に表れるんだ。見ていて気持ちがいい」
『…あなたって何か、足りないのよ』
付き合った女性に何度か言われた言葉。感情がストレートすぎて、田舎っぽいわ、なんて事も言われた。だから、その事が自分の欠点なんだと思っていたのだ。感情を隠せない自分が。なのにこの目の前の変態男はそれが俺の、
「それが君の特権だよ」
簡単に言ってのけた。心がそのまんま顔に表れちゃ、カッコ悪いじゅないか、反論をする智宏に如月は繰り返す、それが君の特権なんだと。誰もが人生をトラブル無く過ごす為に行う無意識の行動。本音を隠して、愛想で笑う。そんなつまらない世の中には、興味ないんだと子供のような輝いた瞳で語る、如月。
やっと自分に正直な人間を見つけたんだと、熱いぐらいの告白…
「僕の想いをレンズを通して君に伝える。君は感じたままを示してくれればいい。そして、それを僕がまた、受け取る」
「…口で言うのは簡単だよな…そんな事、出来るもんか」
智宏が女だったら速攻落ちていただろう、熱の篭った言葉達…
「…だけどさ…あんた、ずっとそっち側じゃないか」
いつの間にか智宏は如月を受け入れ始めていた。自分だけを白い光の中に置いて、向こう側から意味不明の言葉を送ってくるだけ。
もう少し近くでその言葉を聞いてみたい、そんな感情が如月を引寄せた。
「わかった…僕もそっちに行く……」
その代わり……と、手にしたのは、ポラロイドカメラ。やっぱり、撮るんじゃないかと、怒ったふりをしてみせる智宏…それは、まるで一ノ瀬と一緒にいる時の安堵感にも似ていて、智宏は、柔らかく微笑んだ。それが、切欠だった、と思う。
如月の視線が、少しずつ、熱を帯び、智宏の言葉を途切れさせた。
誘われるように胸のボタンを一つ、開けた。如月の熱が伝染したかのように智宏の身体も熱かった。増えていく写真が床に散らばる。ファインダー越しの視線が、智宏を刺し貫く。もっと、開けと、もっと、見せろと、際限無い欲を欲しがられ、乾く喉を潤したくなり、何度も唾を嚥下する…ゴクリと、喉が鳴る音が、二人だけのスタジオにいやらしいほどに響いて、智宏の熱は、また上昇する。
(…こんな感情は、知らない…こんなの…俺じゃ、ないよ…)
悔しさにも似た感情が、智宏の頬を濡らしていた。
スタジオの中にあるのは、シャッターを切る軽い金属音と智宏自身の鼓動の音だけだった。何度も何度も光に晒され、次第に現実を忘れていった。




ふいに肩を叩かれて、勢い良く振り向いた先に一ノ瀬が居た。
「何、ぼんやりしてんだ?そっち、女子トイレ……」
「………あっ」
呆れたように肩を竦める。智宏は慌てて踵を返した。どうかしている…はっきりしない頭を左右に振った。
「何してんだ?お前……」
「なんでも…ない…」
気が付くと如月の視線を思い出している自分がいた。仕事もミスを連発していた。
「何か、あったか?」
一ノ瀬が顔を覗き込んでくる。間近の視線をひどく意識してしまう。それがまんま顔に出たのだろう、二人の顔が揃って赤くなってしまった。
「な、なんだよ…」
「お、お前こそ……」
今朝から不調な智宏を心配になり、席を立ったところを追いかけてきたのはいいが、予想以上に妙な智宏にさすがの一ノ瀬も掛ける言葉を見つけられなかった。
あの時もそうだったと、思い出した。
牛丼屋で無様にもうろたえてしまった一ノ瀬は、自分が智宏に抱いている感情を悟られたのではないかと、恐れていたのだ。
初めは、気の置ける仲間、の筈だったのに、何処か放っておけない智宏が気になり始めたのは、いつだったか一ノ瀬は記憶を手繰り始めた。
(……ああ、そうだ……)
入寮して半月ほど経った頃だ。隣のよしみで、一杯やろうという事になり、週末の気楽さもあって、かなりの量を飲んでいた。泣き上戸なのか、智宏は、過去の女性関係を嘆き始めた。
どうして、自分はいい人で終わってしまうのだと。実った恋なんて、ひとっつも無いぞっ、と、泣き怒り顔で一ノ瀬に掴み掛かって来た。泣き上戸に絡み酒??ヤバイ奴だと思い始めたら、今度は、両の目から大粒の涙を零し始めた。恋愛小説のワンシーンのように目の前の智宏は、声も出さずに涙を流し続けていた。
その涙を拭ってやりたい衝動に襲われて、一ノ瀬は自分の唇で、その涙を吸い取った……瞳を閉じた智宏が凭れかかって来た…その思いもかけない智宏の行動に慌てた一ノ瀬だったが、それは智宏が寝入ってしまったからだと知って安堵すると一緒に自分のしたことに驚愕した。そして、早鐘の鼓動の意味に理由をつけないまま、智宏に口付けをしていた。あの時から、自分は、智宏を…?唐突に自分の感情を理解した一ノ瀬。理由のついた感情が今までの行動を肯定する。安堵と驚愕が混じったまま、視線を合わせられず、口を噤んでいると
「…んだよぉ?ボケっとすんのは、俺の専売特許っ」
無理にテンションを上げ、一ノ瀬の後頭部を叩く。我に帰った一ノ瀬は、混乱したまま、まじまじと智宏の顔を見た。
「おいおい……こんな場所で、キスはやめてね」
お茶らけた智宏を見ても現実に戻りきれなかった一ノ瀬は、ますます、頬を赤くしてしまった。
「な、なんだ…よ……冗談……だってば……」
最近の一ノ瀬は、変だ……智宏は、なんとなく言葉を掛けづらくなり、さっさと事務所に戻った。自分の言葉ひとつひとつに過剰なほどの反応をする一ノ瀬を思いながら、誰か好きなヤツでも出来たかな?と、鈍感ぶりを発揮していた。
帰宅時間、智宏の携帯が鳴った。着信者名は『如月』
「はい」
「今夜、時間あるかな?」
単刀直入な誘い。その言葉を智宏は、素直に受け入れた。もう一度、逢いたいと、智宏も願っていたからだ。途端に頭の中が、如月の視線でいっぱいになった…
『逢いたい…』
如月のあの視線に逢いたい…智宏は、素直にそう思った。デスクの向かいから一ノ瀬が智宏の表情の変化を見ていた。
(…あいつ……もしかして……)
不安が一ノ瀬を占領し始めた。

「……智宏くん…?」
誰がが、自分を呼んでいる…ユラユラする意識で智宏はそれが誰かを確かめようとした。ともすれば、くっついてしまいそうな瞼を必死に開ける。薄暗い街灯が目に入る。夜風が頬に当たって、気持ちいい…
(…あぁ、そうだ。俺…今夜、如月さんと飲んで……)
夕方、如月から電話をもらってから、気持ちが高揚してどうしようもなくなり、落ち着かせる為に飲んだワインが過ぎたようだ。自分の足で立っていられないほど、酔ってしまっていた。
(…俺、カッコ悪りぃ……)
間近に如月の顔があった。そして、如月の視線……
あのスタジオでの視線……揺らぐ視界の向こうで如月の唇が、何かを形作っている。意識も遠のきそうになる智宏の耳元に言葉が降る……
「…君が……欲しい………」
刹那、智宏の体温が上昇する。
告げられて自分の想いを言い当てられたようで、恥ずかしさにその頬を染めた。無言を肯定と判断したのか如月の唇が、智宏の唇に重なる。酒のせいだと、熱くなる体温をごまかしてみても、熱さは一点に集まって行き、思わず漏れた声は甘く、濡れたものだった。
「……智宏…」
耳元で名前を呼ばれ、智宏は、そのまま如月の首に両腕を回した。
その時間が智宏にとってどんな意味を持っていたのか。
理由(わけ)もわからず、ただ、湧き上がる欲望のみにその身を任せ、声を上げ続けた夜…
「んっ…」


「…いいから…声、我慢しないで…」
耳元に吹き込まれた吐息が、智宏の体温を上げる。自分がどうしてこの男の腕の中にいるのか、訳を探しながら必死に考えようとしていた。
如月の視線が、苦しかった。いつの間にか頭の中に焼きついてしまったあの日のフラッシュ…やっぱり、何かが足りなかったのだろうか、疲れて、いたんだろうか…智宏の思考は取り留めない。
「何を、考えているの?」
「……えっ……?」
視線より熱い唇が智宏を奪う。
(…もう……いい…や…)
それは、諦めとは違う、智宏の感情…今はこの初めての感情に身を任せてみたくなったのだ。
「…僚一…さん……」
目の前の男の顔を見上げながら名前を呼んだ。それが、本当の始まりだった、のか……
黙って微笑んだ如月は、智宏の脚を抱えあげた…




目覚めた朝、違う自分が、そこに存在していた。
(…まだ、身体が熱い…)
それから…三日とあけず、如月と共に夜を過ごすようになった。寮へ帰る事も少なくなる。
「おい、智宏。最近、どうしたんだ?」
如月と時間を過ごした次の日は、決まって夢から覚められないまま、デスクに向かっていた。如月が与えた熱が常に智宏を支配していた。
他人の体温にさえ、過剰に反応し、意識が如月に戻る。そんな智宏に広告を任せてくれるクライアントなどいるはずも無く、営業の成績もこの1ヶ月で、最下位になっていた。
「このまんまんじゃ、常務の呼び出し、決定だぜ?いったい何が…」
自分の気持ちに理由がついた一ノ瀬だったが、それがかえってもう一歩踏み出せなくなってた。ある日を境に変わってしまった智宏。いつも何かあると相談を持ちかけられていたというのに、自分は何も聞いていない。そんな疎外感さえ感じていた。
「…智宏が悪いんじゃない…だけど…どうしたんっていうんだ…何があったんだ…?」
垣間見せる艶の増した横顔が、一ノ瀬を不安にさせる。
「恋人が、出来たのか?…なら、いいんだが…なんだか…」
なんだか…危ういんだよ、今のお前は…そう、心に言葉を浮かべて、眼を閉じた。
(…智宏……もっと、お前が知りたいよ……)
しかし、一ノ瀬の心配など耳に入るはずも無く、智宏は、ただ、如月の視線だけを追い続けた。
「…もっと…もっと強く抱いてください……あなたが欲しい……」
自分でも知らなかった自分を如月によって、引き出され、その快楽に身を任せることが今の智宏にとってすべてだった。
他には、何もいらない。次第に智宏は、欠勤しがちになった。
そして、そんな智宏の後姿を見つめながら、歯がゆい思いを抱き続けるしかなかった一ノ瀬…荒れていく智宏の生活。
「お先に失礼します…」
今日も一日、営業に出る事も無く、時間が過ぎることだけを待っていたような智宏…残業必須の同僚達の白い視線を浴びながら退室していく。
「すいませんっ、営業行って、直帰しますっ」
そして一ノ瀬もまた、後を追うように退室した。何かを決意した瞳で…

少し前を歩く智宏の足取りは覚束無い。ちゃんと食事を取っているのか、ここ1ヶ月ほどでだいぶ痩せたと一ノ瀬は思った。恋をしているのだとしても…こんな風に生活を乱すような恋は…認めたくない、そう思っても恋をするのは、智宏の自由だ。やっと掴んだ恋なら応援もしてやりたい、同性の自分に惚れられているなどと知るよりはいい。もしかして商売をしている女なのだろうか、人の良い智宏の事だから生活に困っている女を助けて、無理なバイトを?
あるゆる可能性を考え続けていた。だけどそれのどれもが当てはまらない気がしていた。智宏の言動はどうにも現実味が無い。夢に恋している、そんな雰囲気なのだ。
やがて智宏は白いビルの中に入っていった。
「…ここ、って…」
見上げたビルは、会社の裏の建物だった。随分歩いた気がしたのは、一区画、遠回りしていた為だった。
「なんで…そんな事……」
中に入るのを躊躇しているうちに智宏の姿が見えなくなっていた。
「しまった…見失ってしまったか…何処に向かったんだろう…」
入居している会社のネームプレートをみやる。そして、その中に『スタジオ Silent sign』という名前を見つける…
「……………っ」
確か雪乃に振られた日、追いかけてきた変態男の勤めている会社の名前ではなかったか。あの夜、飲みながら智宏が言っていた。最悪な男だったと。
「だけど…なんでその最低男の会社があるビルに智宏が…?」
高いビルの間を夏の匂いを孕んだ風が吹いていった。それが一ノ瀬の足を止めた。まだ、遠い智宏との距離を感じて…

「君の事は好きだったよ。あの窓越しの出会いからね。だけど僕にはもう、君は必要ないんだ」
それは智宏にとって突然の如月の告白だった。
「そん、な…」
最近、如月の帰宅が遅くなることが多かった。夏の個展の準備なのだろうと思っていた。現にあれから如月は智宏の写真を多数撮った。恥ずかしいからと断ったというのにベッドの上の時でさえ、シャッターを切った。この横顔が君の魅力だよと、大きく引き伸ばした写真を贈られた。如月の言葉が、仕草のひとつひとつが智宏を現実から遠ざけていった。包み込むような、甘さに酔っていったのだ。
それは生きていく事を甘やかすような情愛だった。
「俺は…あなたが…」
「僕を?」
振り返った如月の瞳にもう、自分は映っていないと感じた。だけどもう、如月を失って生きていけない。
「…もう俺は、いらない…?」
「…………………」
無言のまま、ソファに身を沈めるのを眼の端で追いながら服を一枚脱ぎ、足元に跪く…
「…この身体も…いらない…?」
肌蹴た胸元に視線が映ったのを見て取り、そのまま、口付けた…
「……あなたが欲しいんだ…もう一度、抱いて…」
その瞬間、智宏のすべては、如月になった。
そして、次の日から智宏は出社しなくなった。だが、すでに戦力外になっていた智宏が出社しないからと言って、気に止める者など誰も居無い。皆、それぞれ自分の生活を守ることで精一杯なのだ。脱落者に関わっている暇などないのだ。
「…だけど俺は……」
一ノ瀬は、あの夜、智宏を見失った事を後悔しながら、唇を噛み締めた。そして、主の失ったデスクのパソコンだけが、無機質な機械音を発していた。




どうにか一日を終わらせ寮に帰る。隣室からは物音一つしない。自分はこんなにも智宏の事が好きになっていたのかとおかしくなった。いつでも思考を支配しているのは智宏の事。恋人と一緒なら自分にはどうする事も出来ない。それが智宏の選んだ事ならと自分を納得させていた。しかし、あの夜、裏のビルに消えた智宏。拭っても消えない疑念…
「もしかして…智宏はあいつと…」
智宏が何も言ってくれなかった事が自分を卑屈にさせていたのかもしれないと思った。どうしてもっと智宏を問い詰めなかったのかと後悔し始めた。嫌われたくない…無意識に思ったのかもしれない。智宏を好きだと自覚してから…同性に想いを寄せてしまった負い目なのか…
「我ながら、情けないな…」
もし、間に合うのなら智宏を取り戻そう、少しだけ軽くなった心を抱いて願った。
「智宏…お前に逢いたいんだ…」

欠勤届を出して如月僚一の事務所を訪ねた。昨夜、ネットで検索した『スタジオ Silent sign』メインカメラマンの名前は如月僚一。大手化粧品のポスターを手掛けた事もあるかなりの腕前のようだ。しかし、同時に彼に関するスキャンダルな記事も多く目に付いた。その内容が一ノ瀬を不安にさせた。
「なんでこんなヤツと…」
だが、まだ決まった訳ではない。あのビルに入ったのは偶然だったのかもしれない。
「確かめたいんだ。智宏、お前がどうしているのかを…」
ゆっくりと銀色の扉を開けた…

「君は…?」
開いた扉の先には、一人の男が腕を組んで座っていた。来訪は告げてある。この男が智宏と関係あるのか無いのか確かめるのが先決だ。先走りそうになる感情を抑えながら名刺を差し出す。
「『Great Capacity』…智宏の同僚かい?」
(…っ…智宏の事を知っている…)
「ええ、智宏の……友人です…」
「…ふぅん………」
さして興味なさそうにそれでいて、如月の視線は、一ノ瀬の身体の上を舐めるように這った……
「それより……君、モデル、ならない?」
「…………ッ!!」
殴りつけようと一ノ瀬の拳が、胸元まで上がったが……背後から聞こえる声に、凍りついた……
「……一ノ……瀬…?」
入り口からは死角になっていた仮眠室から出てきたのは……
「…智宏……」
たった今ベッドから抜け出してきた風な仕草…その身体に纏っていたのは1枚の白いシャツのみ……大きく開いた胸元から、情事の名残がそこここに覗ける…一ノ瀬は正視出来ずに、目を逸らした……
「どうして……一ノ瀬がここにいる、の?」
二人の世界に乱入した侵入者を見る視線で智宏は、一ノ瀬を非難した。
「…やっぱり…ここにいたの、か…」
ふいに、涙が込み上げ、そう言うのがやっとだった。如月の前で涙を見せたくなど無い、その思い故に、自分の唇を強く噛み締めた。
傷ついた唇からは、赤い血が流れ落ちる。それは、一ノ瀬の涙の色のようで…
「どうして一ノ瀬がここにいるんだよっ、どうしてっ」
智宏の精気のない瞳が、宙を彷徨う…
「だって…お前、会社、出て来ないし…心配で…だから…」
「…会社?…そんなの……もう、関係ない……」
「智宏っ」
「そんなモノ、俺には、必要ない。俺には、僚一だけがいればいい……」
いったいどんな時間を過ごしたというのだろう、一ノ瀬の前に居るのは、智宏では無い。しどけない仕草で如月に甘える姿…自分など、視界にさえ、入っていない。ここで異端なのは、自分なのだと。
「智宏っ、帰って来いよっ、お前がいないと…お前がないと俺は…俺は……」
「……一ノ瀬…?」
「…お前が……好きだ……ずっと好きだったんだ……」
どうして、そんな事を言ってしまったのか、一ノ瀬はわからなかった。今ここで、自分が告白をしたからといって、智宏が戻る筈など無いのに。だが、一ノ瀬は言わずにはいられなかった。このまま、智宏を失ってしまうのなら、もう、自分のちっぽけなプライドなどどうでもよかった。泣いて、智宏の細い足に縋りつきたかった。
あの時間が戻るのなら何をしてもいいと、そう、思っていた。
遅すぎたのだ。智宏は自分の腕から、離れてしまった。一ノ瀬は、ゆっくり、立ち上がり、智宏に背を向けた。スタジオの扉が、重い音を立てて閉じられた。それは、二人の別れの音、だった。




智宏が退社して3ヶ月が過ぎた。表面上は何も変わらない生活。
ただ、隣の部屋は、空き部屋のまま。生きていく事さえ、今の一ノ瀬にとっては義務でしかなくなっていた。食事を採る事も呼吸をする事も智宏のいない時間では、義務でしかない。
「…明日って、来るんだよな…」
どんなに苦しい事があっても朝は来る。誰の上にも平等。それが今の一ノ瀬にはつらすぎた。
明かりの消えた部屋を見上げながら、寮とは反対方向に歩き出した。寮には帰りたくなかった。一人の部屋では、思い出すのは、智宏の事ばかりだったから。ギリギリと締め付けられる息苦しさから、開放されたい。弛緩していく意識でそれだけを思っていた。
ふらつく足元が、いつの間にか、車道へと踏み込んでいた。
何台も車がクラクションを鳴らし、罵声を浴びせかける。しかし、そのどれもが一ノ瀬の耳に届いていなかった。
「……智…宏……智宏……」
胸ポケットから取り出した携帯のメモリーを呼び出す。
『佐伯智宏』
果たしてそのボタンを押したなら、智宏に届くのだろうか?
たったひとつのボタンが……一ノ瀬は、ゆっくりと発信ボタンを押した。無機質に呼び出し音が耳に響く。二回、三回鳴り続ける音が、永遠にも感じられた次の瞬間
「…もしもし……?」
智宏の声……あの日、スタジオで別れてからずっと聞きたかった唯一の音。智宏の声。
「…………………」
一ノ瀬が声を発しようとした時、その身体が宙に飛んだ……甲高いブレーキ音と肉が拉げる音が、深夜の街に響いた。
(……智宏……愛してる………お前だけ……を…)

「…え………?」
智宏は、手にした新聞記事から目が離せなくなった。
読む人もいないまま、積み上げられた新聞の束、その一番上。
『19日早朝、車道を歩いていた東京都在住「Great Capacity」勤務、一ノ瀬和馬(22歳)が後方から来たトラックにはねられ即死。尚、過失は歩行者にもあるとみて……』
「死んだ……?一ノ瀬が……」
マンションの最上階、如月のベッドの中で、動けなくなっていた。
あの日……一ノ瀬の腕を振り切り、如月の胸を選んだ自分。たとえ、心は手に入らないとわかってもすべてを捨てても付いて行きたいと願った男。しかし、それは、間違いだったのではないかと思う日々が続いていた。昨夜もまた、如月は帰宅しなかった。電話すら無い。何度か男が訪ねてきた。たぶん、皆、如月と関係があったのだろう。智宏に対するあからさまな敵意を見て取れば察する事など簡単だ。あの日…夕暮れの喫茶店での出会いは…運命などでは無かった…そう、今は理解していた。少しの興味と少しの対抗心。そして、初めて知った快楽…それを自分は…
「…摩り替えていたのかもな…」
自分だけに向けられる愛情だと…
「そんなのは…夢、だったんだ…」
だるい身体に熱いシャワーを浴びて、何日振りに外へ出た。歩きなれた道を会社へと向かう。受付で聞いた一ノ瀬の実家の住所。電車に乗り、窓の外を見る。何日ぶりなんだろう、智宏は自嘲した。如月とのSEXをする事以外、最近の自分には無かったなと。季節が夏に変わっているなんて気づきもしなかった。人ごみの中で、眩暈を感じた。この光の中に自分は存在していいのだろうか。そんな風に俯きたくなるような蒼穹。ふいに一ノ瀬が呼ぶ声がした気がした。そして、一ノ瀬の実家の前に立った。入り口で受付を済ませ、型どおりのお悔やみを告げ、向かった仏壇には、忘れもしない笑顔があった。暫く、そのまま動けないでいると、智宏に向かって頭を下げた女性が近づいてきた。一ノ瀬の母親。息子を亡くした悲しみにその背を丸め、小さく、見えていた。
「…そうですか…和磨の同僚だった方ですか……」
「はい……佐伯智宏と言います」
「智宏、さん?」
母親は、その名前に驚き、見せたいものがあるからと仏壇の引き出しから傷だらけの携帯を取り出した。そして黙って、液晶画面を差し出す。
『リダイヤル 佐伯智宏 04/05/19 02:38』
見せられた時刻。
「これっ……て……」
今朝新聞で見た時間と、同じ……智宏に思い当たる着信があった。
(…あの時間……)
智宏は、如月の腕の中だった……出なくていいと、遮る手を振り解いて出た携帯からは、車の音だけがしていた。そして、唐突に切れた。そのまま着信相手を確認出来ないまま、再び、如月の腕に引き戻された…幾日ぶりかに抱かれ、我を忘れていた時間…
「…あの子、どうしてだか、その携帯を大事そうに抱えていたんですよ。だから、あんな事故にあっても携帯だけは、無事、だったんです…馬鹿な子ですよね……携帯をかばう、なんて……」
(…あれは……一ノ瀬、だったん、だ………)
『…智宏、お前が好きだ……ずっと、好きだった…』
言葉が、蘇る。自分を好きだと、叫んだ一ノ瀬。
ずっと、一緒に居た。何をするにも一緒で、なのに…一ノ瀬の気持ちには、気づかないふりを……
(……え…?気づかない、って……そうだ……どうして俺は……)
一ノ瀬と過ごした時間が押し寄せてくる。あの時も……そう、どんな時もアイツは俺の傍に居た……包み込むような目で…
どうして俺は、そんなアイツの気持ちを…… 俺は気づいて…いたんだ…なのに…
「俺は…」
智宏の心が、行き場に無い悲しみに包まれ、失ってしまった想いを求め続けるしか出来なかった…



想いが、

千切れ、

風に飛ぶ時、

すべてが、終わる

想い続けた時間、

見つめ続けた時間。

すべてが、無に帰する。

そして、

残されたモノは、

風の中の心を

探し続ける

想い続けた時間、

見つめ続けた時間、

…欲しいと、願った時間。

すでに、『過去』となっていても……


「…智宏……智宏………愛してる……お前、だけだ……」



END